今川義元が送った明眼寺と阿部与左衛門宛書状にて、刈谷城の赦免について織田備後守が懇望したとある。これをどう考えるかで、刈谷城が今川方だったか織田方だったかが分かれる。今川方が刈谷城の攻囲を解いて織田方の状態が継続したのか、開城した刈谷城兵の助命を嘆願しただけで、刈谷城自体は今川方になったのかと考えたが、どちらも釈然としない。
山口左馬助は、笠寺出資者に水野氏と名前を連ねていることが確認できる。三河と尾張国境近辺にいた国人だと思われる。山口左馬助が不平に思う事を義元は予期して、そのフォローを明眼寺と阿部与左衛門に依頼している。明眼寺は水野藤九郎書状で寄進先として登場する、水野氏関係の寺院である。
そこで鵜殿長持の書状に着目してみた。この中で、鵜殿長持は「安心」(斎藤利政書状に登場した安心軒?)に対して、織田信秀が和平締結の途中だというのに飯尾豊前守に不穏な内容の書状を送っているとクレームを送っている。この時は飯尾豊前守に書状は渡らなかったようだが、刈谷でも同じ事があり、まずいことに刈谷城主は乗り気の書状を送ってしまったのではないか。それを山口左馬助が差し止めて義元に訴え出た。義元は信秀に、刈谷城を攻めて見せしめにする旨通達し、慌てた信秀がそこまでしなくてもと「懇望」した。信秀からすると、ここで刈谷城が陥落したら、織田方に味方する勢力が大幅に減ってしまう。義元にしても外交上の恫喝だったので、「赦免」することとした。
そうすると山口左馬助にもフォローが必要だ。「左馬助の功績は認めるが、信秀の懇望もあって刈谷は許す。今川方に変動がある訳ではないので納得してくれ」という形で、左馬助を慰留するように書状を送った。
検証a13では1549(天文18)年に懇望があったと記述したが、上記推測が正しいとすると、刈谷入城(1548(天文17)年3月20日以降と推測)より後であればいつでも構わないこととなる。
信秀に絡むこの2書状はどちらも年次を欠いており、前後関係も不明だ。但し、鵜殿氏書状が先行していた可能性が高いと考えている。その件に着目した山口氏が情報網を張り巡らし、刈谷城主の地位目当てに水野藤九郎を徹底マークして証拠を挙げたのではないか。それだけに恩賞に対してはとてもうるさく、今川義元は慰留の書状を出さなければならなかったと。
この件が刈谷=水野藤九郎へのしこりとして今川氏中枢部の心証として残り、岡部五郎兵衛尉が藤九郎を討ち取ったという書状への伏線になるのかも知れない。
拝見させていただきました。
鵜殿長持の書状は、御説とは逆に、信秀が引馬(浜松)の飯尾に調略をかけたことを、水野十郎左衛門の配下か?の安心軒から密告を受けた朝比奈泰能と共に岡崎城番をしていた鵜殿長持が、密かに盗み見て握り潰して、内輪もめの芽を摘んだという話になるのだろうと思います。
それはそれとしまして、歴探さんが、一次史料によって史実に迫ろうとしておられる姿勢には感服しておりましが、今回の考察には正直がっかりしました。
これは飛躍し過ぎておられて、ほとんど小説だと思います。残念です。
コメントありがとうございます。史料に制限がありますので若干の推断は含んでおりますが、安心軒・明眼寺・山口左馬助がそれぞれ水野氏に関連した人物であることから、鵜殿長持からの書状と「織備懇望」書状は関連性がある可能性が高いと判断しました。
かぎやさんのお考えでは[q]信秀が引馬(浜松)の飯尾に調略をかけたことを、水野十郎左衛門の配下か?の安心軒から密告を受けた朝比奈泰能と共に岡崎城番をしていた鵜殿長持が、密かに盗み見て握り潰して、内輪もめの芽を摘んだという話になるのだろうと思います。[/q]となっていますが、恩賞を期待して情報リークしたであろう安心軒に対して鵜殿長持が何もフォローしていない点が私には不自然に思われます。また、安心軒の密告を受けたとして、確実に信秀密書を捕捉できるかも不明です。鵜殿長持が検閲した安心軒書状の中に信秀の密書が隠されていたと考える方が自然ではないでしょうか。握り潰すという点も、鵜殿長持が隠蔽しても安心軒が他のルートから告発すれば鵜殿氏の立場が極端に悪くなります。長持は「今川義元に報告しない」とは一言も書いていません。「内々に見た」とだけ書きつつ、相手の出方を見ているように私は読みました。和平推進派である長持は強硬派の存在を気にしています。この事件の進展次第では失脚する可能性のある長持は、義元への報告前に信秀の詫び状を確保したかったのではないでしょうか。ちなみに、岡崎城番については糟屋・戸田・匂坂の各氏しか私は確認できていません。
また何かありましたらご意見いただければと思います。
丁寧な説明ありがとうございます。
(1)左馬助と鵜殿・安心との関係ですが、安心軒・明眼寺・山口左馬助がそれぞれ水野氏に絡んで懇意であったとしても、当時敵方であった左馬助に安心軒や鵜殿が自分たちが掴んだ信秀の秘密の文書の内容を漏らしたりするでしょうか?例え、当時の境目の武士がみな日和見であったとしても、この時すでに左馬助は今川方になっていて、二重スパイだったとするのは行き過ぎでしょう。義元も左馬助を簡単に信用したりはしないでしょう。
(2)安心が何者かは解りませんが、十郎左衛門に美濃の斎藤氏からの手紙を取り次ぐ人物です。つまり、恩賞を期待して密告したのではなく、おそらく主人である十郎左衛門の命を受けて、鵜殿にその筋の手紙があることを知らせたと受け取れる手紙の内容なのです。安心が勝手に手紙を出しているわけではありません。
(3)もとより、密書を途中で奪取したりしたわけではありません。そんなことをしたならば、信秀にばれてしまします。原文には「内見仕候」とありますから、鵜殿は飯豊に頼んで内々に見せてもらったのです。そうしたところ、他愛もない音信にすぎなかったというのが、原文の「御され(戯れ)事共」というところです。
(4)ですから、鵜殿が握り潰したというのは、密書などではなく「安心」が聞き込んだ根も葉もない噂ということです。
(5)岡崎城番?これこそ推理です。
なぜ、「安心」は鵜殿長持に手紙を送ったのでしょうか。前から懇意であった?・・・そうかもしれません。
しかし、今川方の誰にでも連絡できるわけではないでしょうから、水野十郎左衛門の「奏者」は鵜殿長持であったのではないかと推測するわけです。
としますと、今川義元の妹を室としていた鵜殿長持は、居城の上の郷城(蒲郡)にいたのではなく、当時の今川氏支配の拠点である「岡崎城に出仕」していたことが考えられるわけです。
・・・いかがでしょうか。
ご意見ありがとうございます。様々な史料で出てきますが、今川領国では「雑説」と呼ばれる騒動が多発しています。ですから、かぎやさんがおっしゃるような見解も視野に入れなければなりませんね。
但し、「御され事」については、ご説明だと疑問が残ります。信秀の書状が他愛もない内容だったとして、このような強い表現を使うでしょうか。そして、「信秀から飯豊に寝返り工作の書状が行った筈だ」と申し立てた相手に「そのような事実はない」と返答する訳ですから、曖昧な表現を避けるのが自然かと思います。更に突き詰めると、鵜殿長持の要請で飯豊が書状を提出したとして、本当に密書が行っていないという証明にはなりません。また、「先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、」が何だったのか説明がつかない状態になります。
山口左馬助に関しては、水野氏とともに笠寺出資者であったこと、刈谷赦免に関連した人物だったことしか現状では把握できていません。不勉強でお恥ずかしいところですが、他に史料があるようでしたらご教示いただけると嬉しく思います。
同様に、鵜殿長持が城番を勤めていたという事も把握できておりません。織田方との和平調停を行なっていた関係上三河国にいた可能性が高いとは思いますが、書状の検閲は城番でなければできないという前提がなければ、城番と確定はできないのではないでしょうか。
ご見解承れればと思います。
お返事ありがとうございます。
ご意見をいただけますと其の度に新しい面に気がつかされまして大変楽しんでいます。
ところで、小生は、高村さんほどの一級史料は持ち合わせてはおりません。すべて、田舎の町の図書館で手に入れられる資料だけでして、見たい書籍はなかなか見ることができません。図書館の蔵書にないからですが・・・。
(1)まず「密書」自体はなかったと小生は思っています。
十郎左衛門ががそのような噂か何かを聞きつけて、「奏者」であったであろう鵜殿長持に「平安」に命じて、それを報告する飛脚を送ったのだろうと考えます。
ですから、密書という言葉を使ったのは小生の誤りで、実際に「飯豊」への信秀からの書状は、通常の音信を伝える以上のものではなかったと考えます。・・・小生が密書や密告などという言葉を使ったことで、先入観を抱かせてミスリードしたものと反省しています。
ですから、「御され事」というのは、おそらく「連歌」を話題にした便りであったものと想像します。と、言いますのは、連歌はこの当時の領主たちの共通した嗜み事でしたから、谷宗牧や里村紹巴のような連歌師の興行などの勧誘を話題にして、誰とでも文通できたとも考えますので、信秀はそれとなく連歌に託けて誼を通じる足掛かりにしていたのではないかと考えます。
そうしますと、この長持の手紙は「安心」さんの杞憂は取り越し苦労でしたよという返信になります。そして、「勘ぐりすぎ」て徒に騒ぎ立てますと、若武者共が先走って謀反人を討つなどと言い出して、敵信秀の離間の策に乗るものになりかねないことを危惧しますという内容だと思います。そこで、漢の故実を引き合いにだしたわけです。
「先飯豊へ者不遣候」は、「安心」から指摘された噂や疑念が持たれたことなどを、「飯豊」には話しませんという意味だと思うのです。事を大きくしてしまうと若者らが騒ぎ出して敵の策に乗ぜられますから、飯豊へは「あなたからの手紙」を「飯豊」に見せて詰問したりはしないという意味だと思うのです。
(2)城番というのは、表現が悪かったと反省していますが、岡崎城が義元の西三河経営の拠点です。それに鵜殿は義元の縁戚に連なるわけですから、岡崎城へ出仕して朝比奈(城番ではありませんが、雪斎を除いたら義元不在の時の駿河軍の最高責任者でしょう)らと経営にあたったことは考えてもおかしくはないと思います。
現に、義元死後も鵜殿長持・長照家は最後まで今川家に忠誠を尽くして滅んでいるからです。・・・岡崎と書いたのは飛躍し過ぎているかもしれませんが・・・。
(3)手紙は検閲されたりはしていないと考えています。
岡崎?、吉田城でもよいのですが、そこへ出仕してきた「飯豊」に、鵜殿が連歌を話題にして「便りが来たんだって?」と話を向ければ、飯豊はピンときて自ら信秀から来た手紙を見せたでしょう。疑われた困るからです。・・・この書状の内容はこの辺のことを言っているのだと小生は思うわけです。
例えば、『東国紀行』天文十三年十一月によれば、谷宗牧が西郡の鵜殿のもとで五井・深溝・竹谷松平氏らと千句連歌を興行していますから、鵜殿長持がさり気なくこのような連歌興行をもう一度計画していることを話題にすることは、自然にできたろうと考えます。
ですから、長持が城番である必要もなければ、城番の権限で対処したのでもないと思います。小生は鵜殿長持は十郎左衛門の「奏者」であり、「安心」は十郎左衛門の配下であったのだろうと想像しています。そして、「飯豊」に対しては、義元の縁戚である立場を利用しての行為だと考えます。
(4)「武新二前被申様ニより、重而談合可申候」では、『武新二前被申様ニより』をどのように読み下せばよいか悩んでいるのですが、後段についてはおっしゃられるような「重ねて打ち合わせして下さい」というのでは、「安心」に誰と何を談合させるのかが分からなくなりますから、「もう一度、内々で相談するつもりです」と考えます。
ご意見ありがとうございます。私も今回のやり取りで鵜殿長持書状について深く考えることができ、勉強になっております。これからも宜しくお願いします。
諸々拝見して、いまだ理解が及ばない点がありますのでご質問させて下さい。
まず書状の検閲ですが、私はこの時代可能だったと考えています。というのは、長井久兵衛書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1194365396)に「先度以後可申通覚悟候処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候、」とあることから、紛争地であったり敵地である場合には、書状が無事通過できるか判らないという状況があったと考えられるからです。詳細は使者が述べるという記述が多かったり、関係者の仲介を得る事が多いのも、確実に通信を行なう手段だったと思います。可能であれば友好勢力や縁者を頼って書状を運ぶのが無難だったのではないでしょうか。となれば、何らかの要因で鵜殿長持の管轄を書状が通過しようとした際に長持が差し押さえて検閲することに支障はなかったと思うのですが(情報伝達に関しては『戦国のコミュニケーション』(山田邦明著)も参照しております)。
次に、ご説明のように鵜殿長持が飯豊に対して織田信秀からの書状の有無・内容を確認したとして、それを信頼できるのかという疑問があります。寝返りが進んでいるにしても全くの潔白だったにしても当たり障りのない書状を提出する可能性がありますから。飯豊が潔白だという絶対的な確信は得られないのではないでしょうか。
また、連歌のことを戯言と呼ぶ例が見つかりませんでした。古語辞典・古文書用語辞典も探しましたが、「戯言=冗談・ふざけたこと」という意味でしか出てきませんでした。浅学で恐縮ですが、何か実例があれば教えていただけますでしょうか。
「武新二」については、私の見解では織田・今川和平案の仲介者だったと考えられます。「ふざけた調略をかけず、最初に仲介者と決めた通りにしてほしい」という意味に読みました。
最期に1点ご確認したいのですが、「縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、」という部分はどうお考えでしょうか。ご説明を熟読しましたが、理解が及びませんでした。私は、長持が信秀書状内の「計策」を実見していたからこそ、このような文になったのだと解釈いたしました。
以上再々の長文で失礼いたしました。ご教示いただけますと嬉しく思います。
前略。
(1)確かに、手紙を途中で奪い取ることは可能です。しかし、それをもう一度検閲した痕跡を消して飯豊に届けることは困難です。それも一回だけでなく何度も行うことは。
小生も『戦国のコミュニケーション』は読みましたが、確かに戦乱や関所で交通が遮断する状況が常態あったようです。しかし、戦国武将に密かに密書を検閲して、再びそれを見たことがばれないようにして飛脚に帰し、飯豊に届けさせる技術があったとは到底思えません。
(2)【内見】については辞典をひかれておられでしょうが、その「内」には秘密にという意味は薄く、外=公(外聞、公開)に対する言葉で、「身内のうちで」という意味が勝ち、「見」には検査という意味は薄いと考えます。
それに、信秀の方を考えてみてください。自分が送った手紙が検閲されたことを知ることになるわけです。手紙を託した者が帰ってきて話すか、使者が帰ってこれないからです。いずれにしても、信秀は手紙が第三者の手に渡ったことを知るわけです。そうしましたならば、信秀はどうするでしょうか?
当然、それを逆手にとって罠に嵌めようとするでしょう。例えば「貴殿の申し出を嬉しく思います。決行の合図をまっています。」とでも書いて、再び検閲を受けるように飛脚を立てれば良いのですから。そうしたら、どうなりますか?
確実に今川氏は飯豊を誅殺するでしょう。義元は山口左馬助にそうしています。しかし、飯豊にはそのような史実はありません。
(3)まず、当時の、それも敵国の武将と頻繁に手紙を遣り取りしていたとは思えませんから、手頃な手紙を提出することはできないでしょう。まず日付の問題がありますし、サインの問題もあるでしょう。(小生は古文書の知識はありません)そんなに簡単に偽造文書を複数提出できるとは思えません。
「貴札委細拝見申候」とある「安心」が鵜殿に送った手紙に書いてあったのは、信秀からの便りが送られた事実か、または悪い噂の類だと小生は思います。
ところで、これは小生からのお願いですが、「率度内見仕候」とある「率度」はどういう意味か教えせていただけませんでしょうか。
(4)信秀からの書状が信用できるか、飯豊が潔白だといえるかというご質問ですが、疑念を持ちながら味方にしておけば、ノイローゼになってしまい、味方を殺し尽くさなければならないでしょう。そのような体制では遠からず崩壊するでしょう。一旦、疑念が生じたら最早修覆がきかないということになってしまいます。・・・駿河今川家が崩壊したのは、味方を信じられなかったからだという結論になります。そして、粛清し続けた信長にも同じことが言えます。
しかし、裏切りが常態であった戦国時代ですから、人々は割り切る術を知っていたものと思います。
(5)勿論、連歌=戯言ではありません。ここでの戯言は他愛もないこと、つまらない事、些細な事という意味でしょうから、勿論のこと連歌だとは断定できません。例えばの話です。鵜殿がそれとなく飯豊に手紙を見せてもらう口実には最も適当だと思ったのです。
また、小生は「されこと」=「戯れこと」だと思ったのですが、「なされこと」かもしれません。つまり、趣味としてなされている事です。素人の小生には判定できません。
それに、「飯富への一札」にも「されこと」にも「御」がついています。敵と見做せば敬語にはしないのではないでしょうか。
(6)「談合可申候」とある「可」とは、①確信をもって推量するか②当然の意を表すか③意志を表すわけですから、手紙の送り手である鵜殿が「談合申すべく候」であって、安心軒に対して「談合申すべし」と命じたわけではないと思います。それに「べし」では「候」に続きません。
もうひとつ、教えていただきたいことがあります。
姓名を短縮する場合に三文字にすることがあるのかということです。例えば、織田備後守ならば織備ですが、松平三郎二郎の場合には松三二と書いたのでしょうか?
この三文字が人名ならば、「前より申サレ様ニより」と書き下すのだろうと思いますが、「ニとヨリ」が何となくしっくり来ません。
(7)「縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、」の解釈ですが、高村さんは「飯豊は信秀の調略に乗るようなことはないだろう」という意味にとっておられますが、小生は安心軒の手紙には、最悪の場合には「飯富謀叛に候歟」とでも書いてあったのだと思うので、「安心軒の手紙を見せても謀叛の嫌疑を否定するでしょう」という意味だと思います。
なぜ、そう解釈するかといいますと、この文では御一札と御計策というように、どちらにも「御」がついていますから、これは両方とも「安心」に対する敬語の故だと思うからです。つまり、一札も計策も「安心」の手になるものだと思うのです。
そうであるならば、「安心」の作った「計策=内通の陰謀」とは、「安心」の抱いた危惧・疑念なのであって、その手紙には内通の証拠が書いてあったのではなく、信秀から手紙が飯豊に送られたという事実だけがあり、それを「安心」が謀叛ではないかと危惧したと解釈するからです。
早速のご意見ありがとうございます。以下簡略ですがお伝えします。
検閲が可能かという点ですが、痕跡を消すのが困難とはどのような状況を指すのでしょうか。懸紙は余り残されていませんので状況が掴みにくいところですが、折封が一般的だったという記憶があります。この辺りは私も疎いので、情報ありましたらお教え下さい。
内見についてはご説明のとおりだと思います。「率度」は「そっと」の当て字だと解釈しています。それから、伝え方が拙かったのですが、私が検閲行為と申していたのは、鵜殿長持が飯豊宛の安心書状を内見した行為全般を指しています。この時代に検閲・押収が行なわれていたのは、手紙が届くか判らなかった・伝達経路が政治情勢に左右されたという史料から見てほぼ間違いないだろうと考えています。とはいえ確定的ではないので、何か反する史料があるようでしたらご教示いただけると助かります。
飯豊が織田信秀から密書(この表現で間違いないと思います)を受け取ったかの確証を鵜殿長持がどう判断したかについて。私の説で今回考えたような仕組み(通常書状の中に密書を同封)を使った場合は確認のしようがありません。飯豊は表向きの書状を出せばよいので。ですから、おっしゃられるような確認は効果がないばかりか、飯豊が叛心を持っていたとしたら相手を無用に警戒させてしまいます。
御され事についてですが、やはり連歌や嗜事を指すのではないと考えます。表現が曖昧過ぎるのです。かぎやさんの説だと、調略という重要な案件で情報を提供してきた相手に出す書状です。何事もなかったと詳しく説明するのが自然ではないでしょうか。飯豊の元に到着していたのは事実なのか、それはいつなのか、内容は何だったのかを書かないで事態を収拾するのは無茶な気がしています。
敬語に関してですが、この書状は目上に宛てて書かれたものですから安心に対して敬語を使っているのは問題ありません。織田信秀に対しても敬語を用いています。逆に飯豊や朝蔵・庵原に敬語はありません。敵方に敬語を使うかについては、私は史料で確認しきれていませんので判りません。ただ、和平を進めていた長持にとって信秀は完全な敵方ではないと認識できます。「談合可申候」については、候文ですから普通に「談合申すべく候」でよいのではありませんか? 相手が目上ですから命令というよりは強い願望だと思います。
3文字略は斎藤利政書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1194276930)に例があります。「武新二」については情報の欠損を恐れて「ニ」を名前の一部だと仮定しました。
「縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉」への解釈ですが、ご説明だとその前に書かれている故事の説明「高祖敵之調略非可乗との依遠慮、果而得勝事」との整合性が判らなくなります。
私は極力原文に沿ってシンプルに考えています。この書状で補足している推察は「本来飯豊宛だった書状を鵜殿長持が検閲した」という点だけです。そしてこの前提があると、「仍信秀より飯豊へ之御一札」から「可為其望候哉、」までの文章が全て信秀密書を扱った内容となって理路整然としてきます。つまり「仍」の部分に「あなたから飯豊に宛てた書状を開いたので」が入れば後は文をそのまま読むだけです。「仍」にいわくがあるのはその前の「貴札委細拝見申候」と関係があります。もらった書状を詳しく読んで返事するのは当たり前なので、「委細」が入る例は見たことがありません。わざわざ入れたのは事情があったと考えるべきでしょう。
かぎやさんの説は少し複雑で私には理解が及ばない点があります。原文と補足の部分を分けた形での全訳を一度拝見できれば勉強になると思います。機会がありましたらぜひ宜しくお願いします。
為にするような議論にお付き合いさせて申し訳ありません。
早速、全文の小生のし訳(誤訳)を二通りご披露します。
①がこれまでの小生の主張で、②が高村さんの解釈に近いものになります。
「貴札ヲ委細ニ拝見申シ候。仍リテ信秀より飯豊へ之御一札、率度、内見仕リ候。」
①貴殿からの手紙をしさいに拝見させていただきました。それで、信秀から飯豊へ宛てた御手紙をこっそり飯豊に頼んで内々で見せてもらいました。
②貴殿からの手紙をしさいに拝見させていただきました。それで、貴方から託された飯豊へ宛の信秀からの御手紙を密かに予め読んでみました。
「然レバ、御され事共。」
①そうしたところ、趣味(連歌)などについての便りでした。
②そうしたところ、この和平交渉をしている最中だというのに、和平協議をぶち壊してしまいそうなフザケタ内容ばかりの便りでした。
「只今、御和之儀ノ申シ調ヒ度ク半ニ候ノ事ニ候条、先ズモッテ飯豊へハ遣ハサズ候。」
①現在は和平交渉で折り合いをつけるのに途半ばという状況ですので、まずもって、飯豊へは、貴殿(安心)が危惧されておられたことは知らせないことにしました。(なぜなら、飯豊が自分が疑われたということになると、不測の事態に発展するかも知れないからです。)
②現在は和平交渉で折り合いをつけるのに途半ばという状況ですので、この信秀からの手紙を読んだ飯富が和平協議をぶち壊さないとも限りませんから、まずもって、飯豊へは此の手紙を渡さないことにしました。
「我等、預り置キ候。」
①そこで、私はこの件は胸中に秘して置くことにします。
②そこで、私は(急ぎの返事を必要とするような内容でもないので、信秀に不審がられることもないでしょうから)この手紙は、一件落着するまで一時預かって置くことにしました。
「惣別、彼ノ仰サレ様、古も其ノ例ハ多ク候。」
①だいたい、信秀が手紙でお仰されたようなことは、(戦争中であり、その交渉中であっても)昔もそのような例は多かったようです。
②だいたい、信秀のように好戦的な意見(戦で決着をつけようなどという意見)は、昔もそのような例が多いのです。
「項羽・高祖ノ戦ヒハ、支那ノ四百州ノ人民ノ煩とて、両人ノ意恨故、相戦ヒニテ之ヲ果ス可ク由、項羽は自ラ打向ハレ候ト雖モ、高祖ハ敵ノ調略(戦略)ニ乗ル可キニ非ズとの遠(深)慮ニ依リ、果シテ勝チヲ得ル事、漢之代ノ七百年ヲ保タレ候。」
①②中国では項羽と高祖の戦いで、中国の四百にのぼる国々の人民が迷惑したのは、両人のいがみ合いが原因なのだから、その遺恨を取り除くには戦いで決着をつけねばならないという訳で、項羽の方は攻撃をしかけていったのですが、高祖の方は敵の手に乗って戦争をする可きではないとしたその深慮によって、戦いを避けることで、結局は勝ちを得る事ができ、漢の王朝七百年を保つことができたのです。
①言外(ですから、音信があったというだけで、敵の調略の陰謀だと疑心暗鬼になっては、内部崩壊してしまいますから、気をつけなければなりません。)
②言外(ですから、信秀が和平条件に不満であって好戦的だからといって、それにつられて戦を再開すべきではありません。)
「縦ヨリ御一札ヲ飯豊ニ見ラレ候共、御計策ニハ同意有ル間敷ク候哉。」
①もとより、貴殿(安心)からの疑念が書いてある手紙を飯豊に届けて見せたからと言って、信秀が仕掛けた「味方に疑わせるという計略」に飯豊が乗せられて、信秀と手を結ぶようなことはないでしょう。
②もとより、この信秀からの手紙をそのまま飯豊に届けて見せたからと言って、信秀の好戦的な主張の挑発に飯豊が乗せられて、開戦に賛成するようなことはないでしょう。
「但シ、駿遠ノ若武者ガ聞キ及ばれ候ハバ、朝蔵・庵原ヲ始メト為シ、其ノ望ヲ為ス可ク候哉。」
①しかし、駿河や遠江の若武者が、信秀からの便りがあったという事を聞き及ぶことにでもなれば、(ただそれだけで内容には関係なく)朝蔵・庵原を始めとした主戦論者は、その考えを押し通すことができるようになり、交渉打ち切り即開戦という事になるでしょう。
②しかし、駿河や遠江の若武者がこのような信秀のフザケタ手紙が送られてきたという事を聞き及ぶことにでもなれば、朝蔵・庵原を始めとした主戦論者は、その考えを押し通すことができるようになり、交渉打ち切り即開戦という事になるでしょう。
「此ノ段之事ニ候ハバ、去年以来、拙者存分ノ相叶ハザル事ニ候間、兎ニ角ニ、御無事ガ肝要ニ候。」
①②和平交渉が、今一歩という段階に来ているのですから、去年いらいの私(長持)の想いがかなわなくなってしまいます。ですから、兎にも角にも平穏無事であることが肝心です。
「武新二ノ前に申され様ニより、重ネテ談合ヲ申ス可ク候、恐惶謹言。」
①武新二が前に話しておられた遣り方で、もう一度、こちらでこれからの対応を相談するつもりです。
②武新二が前に話しておられた条件によって、重ねて和平の話し合を勧めたく思っています。
追伸
①他人に見られると困るような文書であれば「封」をしたでしょうし、密書ならば紙縒りにして着物や髷に縫いこんだりすることも考えられます。ですから、復元が難しいと思いました。
②飛脚に利用された僧・御師・修験者・連雀商人・御用商人などは独自のネットワークを持っており、彼らなくしては遠隔地の特定の個人宅にたどり着くことはできなかったはずだと思います。(地図もなければ、課税台帳も途絶えています)
彼らに対して、不審な点もないのに検閲などをしたならば、その武士は以後自分が手紙を彼らに託すことなどは、一切できなくなってしまいます。
それに、当時一般的に検閲されていたのであれば、内容は全て口頭により、文書はそれを持参する者の信頼性を保証する文言と使者の身分のみであったはずです。その程度の用心は誰でもしたものと思われます。
③音信が不通になるのは、恒常的な戦乱状態のために全面的な通行止めが実施されたり、盗賊や追剥などの治安の悪化によってのことで、検閲のせいではないと思います。検閲されるのは、態々、交戦中の敵国から来たり、そこへ行こうとしたりするからだと思います。
参考文献については、まとまった文献としては山田邦明氏の『戦国のコミュニュケーション』より他は知りません。後は、参考文献として挙げられているような文書の中に散見するだけで、山伏の働きについては、榎原雅治氏の「山伏が棟別銭を集めた話/遥かなる中世」などから想像するほかないのではないかと考えます。不勉強で申し訳ありません。
以上です。恐惶謹言。
コメント拝見しました。まず検閲はあったかという懸案について。かぎやさんのご推測は了解しましたが、私の説も含め決定的な同時代史料が存在しません。そこで現時点では検閲可能かは不明としたいと思います。条件に合致する史料があったところで仕切り直しということで。
さて、いただいた訳の中で「縦」を「もとより」と読み下されておりますが、「縦=仮令=たとえ」が一般的かと思います。「もとより」であれば「固」と記述するのが通例でしょう。また、かぎやさんの訳だと原文以外の要素が混在している箇所がありましたので、私の方でまとめてみました。
■私の解釈 ()は推察 []は省略語の補足
(あなたから飯豊宛の)お手紙を詳細に拝見しました。よって(その中に隠されていた)信秀から飯豊への書簡も内々に見たところ、(調略という)戯言がありました。現在講和の交渉が過半まで来ているところですから、[信秀書簡は]とりあえず飯豊には遣わさず、私が預かっています。総じてあの[信秀書簡での]おっしゃりようは、昔にも例が多いものです。項羽・高祖の戦争もそうです。支那400州の人民の煩いとなったこの戦争は、二人の遺恨が原因で戦となったと言います。項羽より攻撃を仕掛けたのですが、高祖は敵の調略に乗らない深慮によって結局勝利し、漢帝国700年を築きました。たとえこの[信秀]書簡を飯豊が読んだとしても、この[信秀書簡にある]策謀に同意することはないのではありませんか。但し駿河・遠江の若い武士がこの[信秀書簡の]事を聞いたなら、朝蔵・庵原を初めとしてその望みを行なうのではありませんか。このような事では、去年以来の私の努力は叶わないので、兎にも角にも無事が一番です。『武新二』が前に申されたように重ねて打ち合わせをお願いします。
■かぎやさんの解釈 ()は推察 []は省略語の補足
[あなたから私に宛てた]お手紙を詳細に拝見しました。よって(飯豊から取り寄せて)信秀から飯豊への書簡も内々に見たところ、(連歌という)戯言がありました(だけなので、飯豊への疑いは晴れました)。現在講和の交渉が過半まで来ているところですから、(疑念を煽りたくないので)とりあえず飯豊には[調査の糾明使を]遣わさず、[案件は]私が預かっています。総じてあの[信秀の]おっしゃりよう[とあなたの書簡が指摘していること]は、昔にも例が多いものです。項羽・高祖(劉邦)の戦争もそうです。支那400州の人民の煩いとなったこの戦争は、二人の遺恨が原因で戦となったと言います。項羽より攻撃を仕掛けたのですが、高祖は敵の調略に乗らない深慮によって結局勝利し、漢帝国700年を築きました。たとえこの[あなたからの]書簡を飯豊が読んだとしても、この[あなたからの書簡が指摘しているような、信秀との間の]策謀[があったとするあなたの意見]に同意することはないのではありませんか。但し駿河・遠江の若い武士がこの[あなたの書簡の]事を聞いたなら、朝蔵・庵原を初めとしてその望みを行なうのではありませんか。このような事では、去年以来の私の努力は叶わないので、兎にも角にも無事が一番です。『武新二』が前に申されたように重ねて打ち合わせをお願いします。
上記は過去エントリーの訳文を少し改変しています。かぎやさんの解釈だと、戯言が何だったのか、飯豊の疑いはどうなったのか、飯豊に遣わさなかったのが何なのかを相手に伝えていません。おっしゃるようなシチュエーションであれば、これらの点を明確にしなければ相手は納得しないでしょう。また、信秀の発言が唐突に出てきていますのでこれを工夫して原文中に埋め込みましたが、伝聞であれば「由」が入る筈なのでやはり無理があります。
最後に、阿部与左衛門・明眼寺宛義元書状の「赦免」ですが、匂坂長能宛義元書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1195801472)、足立右馬助宛義元書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1198517094)と山吉孫次郎宛氏康書状(https://old.rek.jp/index.php?UID=1198600115)から、「敵方に寝返った勢力が出戻る行為」だと定義しつつあります。この辺りはまとまったらエントリーします。
お早うございます。
貴見を拝見しました。
「縦」はご指摘の通り、小生の誤りです。
小生の訳には、「お願いします」などという文言は一言もないはずですが。
信秀の「発言」は唐突でも伝聞でもありません。信秀が発進した手紙に書かれていたことを指します。表現が悪かったでしょうか。
これからのエントリーを楽しみにしています。
かしこ。