今川義元、弓気多七郎が安城・上野で攻城に活躍したことを顕彰
今度於三州安城、及度々射能矢仕、殊十一月八日追手一木戸焼崩、無比類働感悦之至也、又廿三日上野■南端城於右手ニ而も能矢仕、城中真先乗入、於本城門際、別而敵苦之条、神妙也、弥可抽忠功之状如件 十二月廿三日 義元判 弓気多七郎 …
今度於三州安城、及度々射能矢仕、殊十一月八日追手一木戸焼崩、無比類働感悦之至也、又廿三日上野■南端城於右手ニ而も能矢仕、城中真先乗入、於本城門際、別而敵苦之条、神妙也、弥可抽忠功之状如件 十二月廿三日 義元判 弓気多七郎 …
何故か書棚からなくなっていたので、改めて買い直して読んでいる。これが2度目になるが、最初に読んでから10年以上経過しているので初読に近い。 フランス革命に巻き込まれたドクトル・マネットが中心になるが、今回は『モンテ・ …
和泉殿不慮之 仕合ニ而被相果 不及是非候然者 六左衛門指越候 和泉殿ニ不相替 馳走肝要候謹言 七月廿五日 家康(花押) 上田清兵衛とのへ 鈴木次兵衛とのへ 同久兵衛とのへ →新編東浦町誌「徳川家康判物」 和泉守殿が思い …
1559(永禄2)年 ○正月甲斐雪水大に民舎田圃を没す(妙法寺記)○十月十六日大雷雨十二月七日雷雨是日甲斐大雨水溢れて人家を没す(御湯殿上日記)○六月炎旱(厳助往年記)○是歳疫疾流行(妙法寺記) 1560(永禄3)年 ○ …
岡部五郎兵衛尉が鳴海を出て、合戦が収束したのはいつかを考察する。まず、各文書を時系列でまとめてみる。 合戦後最も早い文書は、5月22日に三浦内匠助が松井山城守に宛てたものだ。「去十九日、於尾州口不慮之御仕合、無是非次第 …
就西尾在城参百貫文之分、所宛行之也、昼夜用心普請已下、無油断先二三ヶ年可遂在城、末々之儀者、至于其時可申付、然者自余之番衆、就有無沙汰者、急度可加異見者也、仍如件、 弘治参年丁巳 十月九日 治部大輔(花押) 三浦左京亮殿 …
来翰祝着候、殊鮭給候、賞翫申候、随而当陣之儀、其以後就被成吉良殿逆心、近日西条へ動之儀申付、彼庄内悉放火、二百余討捕候、可御安心候、就中東口無別状候哉、承度候、猶期来信候、恐々謹言、 閏十月四日 義元(花押) 幻庵御房 …
去十六日於狐橋、被官小木源三郎切疵三ヶ所、木下藤次郎矢手、中村兵衛太郎切疵弐ヶ所、片切彦三郎矢手、小者一人矢手、各合鑓走廻候、此旨有御披露、御証判御申被下候者可畏入候、恐惶謹言、 八月廿五日 天野小四郎 虎景 飯尾善右衛 …
去十六日於狐橋合戦、走廻之段神妙也、殊親類被官合鑓分捕高名、蒙疵抽粉骨云々、甚以感悦之至也、弥可勤軍功之状如件、 天文十四 八月廿二日 義元(花押) 天野安芸守殿 →静岡県史「今川義元感状写」 去る16日、狐橋における …
去十六日於今井狐橋合戦、最前馳向射好矢并同心被官合鑓分捕高名、蒙疵抽粉骨走廻云々、甚以神妙候、感悦之至也、弥可抽軍功之状如件、 天文十四 八月廿二日 義元(花押) 天野小四郎殿 →静岡県史「今川義元感状」 去る16日の …