年来父六郎左衛門尉相拘名職并知行等之事

一桂野郷名田之事、弐拾五貫六百文、田畠・山屋敷・同居屋敷共、従此内公方年貢六貫六百文有之、

一年来出置知行之事

一九久平郷拾参貫文、内徳共山河屋敷有之、桂野郷六貫文、山中郷拾壱貫文、鵜瀬郷参貫三百文、行広郷六貫六百文并内徳分共山屋敷同居屋敷之事

 右、先年松平左衛門督逆心之刻、父六郎左衛門尉同前ニ廻殊策、松平伝左衛門尉・中条与三郎人数楯籠之処、城主市兵衛共立出、抽忠節之条、彼市兵衛知行分八拾貫文之半分四拾貫文并行広名内徳分、永所差行也、次名田等如前々領掌訖、殊拾ヶ年陣番奉公相勤之間、縦同名市兵衛尉雖令赦免、彼地之事永不可有相違、然処不孝之由申掠、彼知行分父六郎左衛門弟彦九郎ニ一円雖出置之、両年■左右方令在府遂裁断申之処、申分者一向無之沙汰之旨為明鏡之間、信正任其道理知行分所充行也、但彼弟者母ニ添置、陣番之時ニ可令与力、知行名田共三ヶ壱弟彦九郎ニ可出置之、若寄事於左右自余之者於相頼者、彼三ヶ壱永召放、信正可令為進退、次六郎左衛門尉借置米銭事、随其知行為兄弟可返弁、縦以親之譲置判形・書物、重弟注進訴訟、一切不可許容、守此旨可抽忠功之状、仍如件、

永禄四 辛酉

閏三月廿一日

氏真(花押影)

鱸新左衛門尉殿

→愛知県史 資料編11「今川氏真判物写」(伊予古文書一九)

 父六郎左衛門尉が年来抱え持っていた名職と知行などのこと。
 一、桂野郷の名田のこと。25貫600文、田畠・山屋敷・同居屋敷も含む。この内より公方年貢として6貫600文。
 一、年来拠出している知行のこと。
 一、九久平郷13貫文、内徳として山河と屋敷がある。桂野郷6貫文、山中郷11貫文、鵜瀬郷3貫300文、行広郷6貫600文と内徳分と山屋敷・同居屋敷。
 右は先年に松平左衛門督逆心の際、父の六郎左衛門尉が同じく策を巡らして、松平伝左衛門尉と中条与三郎の部隊と立て籠もったところ、城主市兵衛が共に出立し、忠節にぬきんでて、市兵衛知行の80貫文の半分40貫文と行広名の内徳分、末永く所を差し行なう。ついで名田等を以前のように掌握した。特に10年にわたり陣番を勤めたので、たとえ同姓の市兵衛尉が赦免されたとしても、あの地のことは永く相違ないように。ところが不孝であると申し掠めて、あの知行分を父六郎左衛門の弟である彦九郎に一円拠出するとしたが、1両年双方を在府させて裁決をとったが、原告者から一向に控訴もないことは明らかであるので信正はその道理に従って知行を確定する。ただし、その弟は母に添え置き、陣番の際に与力とするように。知行名田ともに1/3は弟彦九郎に拠出せよ。もし他の者を介して控訴するなら、その1/3も没収し、信正の任意に処理するように。次に、六郎左衛門尉が借りていた米銭について。その知行に応じて兄弟のため返済せよ。たとえ親の遺言状などを更に弟が申告して訴訟したとしても、一切受け付けない。この旨を守り忠功にぬきんでるように。

遠山之事、天王右馬大夫諸檀那之上者、雖為敵方可令出入、并野方已下不可有違乱者也、仍状如件、

永禄八

 十二月廿八日

(織田信長花押影)

→愛知県史 資料編11「織田信長判物写」(張州雑志六八)

 遠山のこと、天王右馬大夫の諸檀那である上は、敵方といえども出入りさせるように。同時に野方以下違反のないように。

宛行知行分之事

一参州大崎郷之事 一遠州小山・見取段銭

                  四百二貫文之事

一弐百貫文 段銭、但前々堀越役知行分内也、

一弐百貫文 宇苅郷年貢之内、但米方者見付市升壱斗宛積也、

右、依牛久保在城所令扶助也、近年抽奉公之上、於三州出置為知行分改替、於遠州所扶助也、并加増分是又為新給恩永不可有相違、但於牛久保在城相止者、彼知行分内弐百貫文可上表、相残分者永領掌訖、殊以今度東三河雖及錯乱、彼地在城之段忠節也、弥以於抽軍功者、重可加扶助之状如件、

永禄七甲子年五月廿三日

上総介判

匂坂六右衛門尉殿

→静岡県史 資料編7「今川氏真判物写」(今川一族向坂家譜)

 割り当てた知行について。一、三河国大崎郷のこと。一、遠江国小山・見取の段銭200貫文のこと。一、200貫文は段銭。但し以前堀越役の知行とした分に含む。一、200貫文は宇苅郷の年貢から。但し米の換算は見付の市升で計量する。
 右は牛久保城番のための補助とする。近年は奉公にぬきんでているので、三河国で拠出した知行の代替として遠江国から補助を回す。同時に所領の加増分もまた新たな恩賞とすることは末永く相違ないだろう。但し牛久保城番を外れたら、あの知行から200貫文を返却し、残りを永く掌握するように。特にこの度三河国が混乱となったのにも関らずあの地に在城したことは忠節である。ますます軍功にぬきんでるなら重ねて補助を加えるだろう。

太神宮立願之事

右、就三州本意者、於彼地一所永可奉寄附之、但錯乱之間者、先於駿・遠之中毎年弐百俵、為日御供奉納之処、不可有相違者、以此旨弥於御神前、可為専武運長久・国家安全之丹誠之状如件、

永禄四 辛酉年

八月廿六日

氏真(花押影)

亀田大夫殿

→愛知県史 資料編11 「今川氏真判物写」(勢州御師亀田文書)

 太神宮に願掛けすること。右において三河国での本意については、あの地から一所を永く寄付いたします。ただし国が錯乱しているので、先ず駿河国・遠江国から毎年200俵、『日御供』として奉納し、相違はありません。この旨をもってますますご神前で武運長久・国家安全を丹精込めてご祈祷下さい。

尾上彦太郎跡職之事

右、去年五月十九日、兄彦太郎尾州一戦之刻致天沢寺殿供無比類遂討死、為忠節之跡候間、知行以下任先判形之旨不可有相違、次ニ長増寺之事、山林竹木等如前々可為地頭計也、其上用水・井溝等之事、是又可為如先規、若違乱之百姓等令追却、郷中新百姓可申付候、縦百姓等寄事左右雖企濫訴、一切不可許容、守此旨弥可励奉公之状、仍如件、

永禄四 辛酉年

二月廿八日

氏真

→愛知県史 資料編11 「今川氏真判物写」(掛川誌稿巻九)

尾上彦太郎の遺産相続について。去る年5月19日に尾張国で一戦した際、天沢寺殿の供として兄彦太郎が比類のない討ち死にを遂げた。忠節をなしたので知行以下諸々は先の判形の旨に任せ相違のないように。次に長増寺のこと。山林竹木などは前々のように地頭の専有とする。更に用水や井戸・水路の件も先例の通りとする。もし違反した百姓がいたら追放し、郷中で新しい百姓を取り立てて下さい。百姓たちが理屈をこねて勝手に訴えたとしても、一切許容しないだろう。この旨を守り奉公に励むように。

一先年依忠節被充行知行之事

一於田峯郷所務仕来人夫銭之事

右之条々、天沢寺殿判形数通任明鏡之旨、永領掌不可有相違、彼印形者為継目之筋迄之間、可申子細於有之者、以先判可申改也、然者去五月十九日於尾州一戦之刻、武節筋堅固走廻之段、太神妙也、并同心如年来相抱、弥於抽忠功者、重而可加扶助者也、仍如件、

永禄三年 庚申 十月七日

氏真判

菅沼久助殿

→愛知県史 資料編11 「今川氏真判物写」(浅羽本図)

 一、先年忠節により給付した知行のこと。
 一、田峯郷の支配分の人夫銭のこと。
 右の条項は、天沢寺殿(今川義元)の判形数通ではっきりしている。永く掌握することに相違ないように。あの印形は相続するまでのものなので、事情があれば申告するように。先の判をもって改めるだろう。5月19日、尾張国での一戦の際、武節筋を堅固に守備して活躍した。とても神妙である。並びに同心を今までのように抱え、ますます忠功にぬきんでるなら、重ねて扶助を加える。

就本多助太夫進退困窮、吉田蔵入之借銭、令訴訟之条免許之処、以其引懸、自余之供銭徳政之沙汰申触之由、自由之至也、任証文令催促、可請取之者也、如件、

永禄三年

十月十日

岩瀬雅楽助殿

→愛知県史 資料編11 「今川氏真?判物写」(三川古文書)

本多助太夫が進退に困った際に吉田の蔵から貸し出した借金の件。訴訟したので許諾したところ、その『引懸』(判決?)に託け、その他の供銭も徳政扱いになると周知したという。勝手の至りである。証文に任せて催促し、これを受領すること。

父和泉入道身上之事、先度子細雖相尋、猶以無疎略之旨、以罰文申上走朧段、明鏡之略申趣聞届候条令赦免畢、守此旨兄弟別而抽奉公之状、仍如件、

永禄三年庚申

十月十日

氏真判

岩瀬雅楽助殿

→愛知県史 資料編11 「今川氏真判物写」(三川古文書)

 父である和泉入道の身上について。先に詳細を尋ねてきたが、ますます粗略がない旨、起請文によって上申し奔走した。はっきり申し出たことを聞き届け赦免する。このことを守り兄弟で格別の奉公をなすように。

就駿軍鉾楯、氏真至于熊河地退出、因茲駿遠両国悉敵対之割、抛身命、任下知凌海陸之難所、数百里無相違懸川相移、城内堅固ニ持固、百余日被被籠城、終氏真并御前御帰国候、誠以忠信無頭、高名之至、無比類候、仍太刀一腰并五萬之地遣之候、仍状如件、

永禄十二年己巳

五月廿三日

氏政(花押)

清水新七郎殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政判物写」(古証文五)

清水一岳氏所蔵本状写から1569(永禄12)年に比定。

 駿河での戦闘状況について、氏真が熊河(掛川)の地へ退却し、このことで駿河・遠江の両国ことごとくが敵対した際、身命をなげうち、下知に従って海陸の難所を越え数百里の道を間違いなく掛川に移動、城内を堅固に守備して百余日籠城し、ついに氏真と夫人を帰国させました。本当に忠信は並ぶものがなく、高名の至りで比類がありません。太刀1越と5万疋の領地を進呈します。

就此度河越籠城赦免条ゝ、

一、借銭・借米徳政之事、

一、本意之上、於忍・岩付領内、望地可出置事、

以上

右、今度当方安危砌候条、軽身命抽而可走廻者也、仍状如件、

十二月二日

氏政(花押)

氏康(花押)

池田安芸守殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏康・同氏政連署判物写」(相州文書所収大住郡武兵衛所蔵文書)

1560(永禄3)年に比定。

 この度の川越籠城による赦免事項。
 一、借りた金銭と米は徳政とする。
 一、本意の上は、忍・岩槻領内で望む地所を与える。
 以上。右はこの度我々が危機に瀕しているので身命を軽んじぬきんでて活躍するように。