三浦左京亮知行仁田村之年貢員数、米弐百壱俵弐斗、代物弐貫文地之事
   此外壱石壱斗一[二]升高尾江元政寄進之間、永除之也、

右、左京亮知行、数年依旱魃令困窮、借銭・借米為過分之間、彼知行五百弐貫拾文仁売渡、進退可続之由、達而令訴訟之条、不準自余買得之儀[売渡段]、領掌畢、一円買得之上者、永為私領可所務、年貢以下百姓等令難渋者、為地頭計新百姓可申付、然間[者]左京亮永代致同心、可走廻、若彼地増分就令出来者、無相違遂所務、随其分限得可加増、但陣番知行役之事、為幼少之間、以名代可勤之者也、仍如件、

   天文廿四

    七月六日

     治——

      遠藤楠鍋

→静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(三浦文書)

 三浦左京亮の知行地である仁田村の年貢数量、米201俵2斗、代物2貫文のこと。このほか1石1斗2升高尾へ元政が寄進したため永代で除外する。
 右は、左京亮の知行で数年の旱魃により困窮して銭と米を過剰に借りたので、あの知行502貫10文で売り渡し、進退が続けたいとのこと。たっての訴訟とのことで、特別に売買を承認する。一円を買得した上は、末永く私領として所務するように。年貢で百姓が出し渋るならば、地頭の判断として新たな百姓を申し付けるように。ということで左京亮に永代同心して奔走するように。もしあの土地に増収ができたら、相違なく所務を遂げ、その分限に従って加増を得るように。但し、陣番の知行役については、幼少の間は代理人が勤めること。

就塩田在城、内田定所務百五拾六貫七百四拾文、二子之内弐拾貫五百文進之候、此外者以蔵出可渡申候、然間、具足・甲四十人、堅在城簡要候、恐々謹言、

永禄四辛酉

五月十日

信玄(花押影)

桃井六郎次郎殿

→戦国遺文 武田氏編「武田信玄判物写」(上田市・佐藤氏所蔵「続錦雑誌」)

 塩田在城について、内田に定めた徴税権156貫740文、二子の内から20貫500文を進呈します。この他は蔵からの拠出でお渡しします。これにより、具足と兜の兵40名で堅く城番を努めることが大切です。

年来同名三郎左衛門尉、同織部丞・同新左衛門尉令同意逆心之儀、先年奥平八郎兵衛尉為訴人申出之上、今度林左京進令相談、為帰忠以証文言上、甚以忠節之至也、因茲同名隅松一跡之儀、所々令改易也、然者前々知行分際田菅沼之内市場名、并善部平居内井道同代木、養父半分、武節友安名之内中藤、同田地八段、杉山之内田四段、畠、宇利之内田地五段・屋敷一所、如前々収務永領掌了、勅養寺・松山観音堂同寺領・霊峰庵如前々可支配、但三ヶ所、人給ニ不可落也、平居内田地五貫六百文地、庭野郷内米五石并於庭野郷三人扶持、如年来永領掌ゝ并、新七給分也、為今度忠賞、本知田内拾六貫五百文、近来増分弐貫文、鵜河九貫五百文、近年増分三貫文、此内代官免壱貫三百文、糸綿分壱貫七百文、以上三拾壱貫文為本知行上還附之、布理并一色拾八貫文、龍泉寺之持副三貫文、但此弐貫文者可進納、以上五拾貫文分永所宛行之也、但此貫数五拾貫文之分、至于後年百姓指出之上令過上者、為上納所可進納、弥可抽忠節者也、

天文廿二年 癸丑

 九月四日

治部太輔

菅沼伊賀殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(浅羽本系図)

 同姓である三郎左衛門尉と、同じく織部丞、同じく新左衛門尉が年来逆心に同意していたこと、先年に奥平八郎兵衛尉を訴人として申し出た上、この度林左京進に相談し、返り忠することを証文で申し上げた。本当に忠節の至りである。このことにより、同姓隅松の跡地のこと、それぞれの土地を改易する。ということで、前々からの知行分である際田菅沼のうち市場名、並びに善部平居のうち井道、同じく代木、養父の半分、武節友安名のうち中藤、同じく田地8段、杉山のうち田4段と畠、宇利のうち田地5段と屋敷地1つ、以前のように徴税し末永く掌握すること。勅養寺と松山観音堂の寺領、霊峰庵は以前のように支配せよ。但し3箇所は他者の給地として落としてはならない。平居のうち田地5貫600文の地、庭野郷のうち米5石と庭野郷における3人扶持は年来のように末永く掌握し、新七給分とする。この度の褒美として、本知行の田のうち16貫500文と近頃の増分2貫文、鵜河の9貫500文と近頃の増分3貫文、このうち代官控除分1貫300文、木綿分1貫700文、合計31貫文は本知行とした上で還付する。布理と一色の18貫文、龍泉寺の持ち副え3貫文(但しこの2貫文は進納するように)、合計50貫文分は末永く宛て行なう。但しこの貫数50貫文の分は、後年になって百姓の申告で剰余が出たら納所に上げるため進納するように。ますます忠節にぬきんでるように。

一知行分本知之事者、不入之儀領掌訖、新知分者可為如前々事、

一親類・被官・百姓以下、私之訴訟企越訴事、堅令停止之、但敵内通法度之外儀就有之者、可及越訴事、

一被官・百姓依有不儀、加成敗之処、或其子、或其好之人、以新儀地之被官仁罷出之上、至于当座被相頼主人、其輩拘置、彼諸職可支配之由、雖有申懸族、一向不可許容、并自前々知行之内乍令居住、於有無沙汰之儀者、相拘名職・屋敷共可召放事、

一雖為他之被官、百姓職就相勤者、百姓役可申付事、

一惣知行野山浜院、如先規可支配事、

 付、佐脇郷野院本田縫殿助為急帯之条、以去年雪斎異見、為中分之上者、如彼異見可申付事、

一神領・寺領之事、定勝於納得之上者、可及判形事、

一入国以前、定勝并被官・百姓等借銭・借米之事、或敵同意、或於構不儀輩者、万一有訴訟之子細雖令還住、不可令返弁事、

右条々、領掌永不可有相違也、仍如件、

天文廿二年

三月廿一日

治部大輔判

奥平監物丞殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

 一、知行分の本知行のことは、不入であることは領掌済みである。新知行の分は以前のように行なうこと。
 一、被官・百姓が不義をなしたことで成敗を加える際、その子供や関係のある人間は、新たな土地の被官になった上で、当座の主人を頼り、その輩を雇用して、その諸職を支配しようという申し出があったとしても、一切許容してはならない。同時に、以前より知行のうちに居住していながら、無沙汰がある者は、名職・屋敷ともに没収する。
 一、他の被官となっていても、百姓職を務める者には百姓役を申し付けること。
 一、惣知行の野・山・浜・院は先の決まりの通り支配すること。
 付:佐脇の郷野院は本田縫殿助が急帯をなしたので、去る年に太原雪斎の意見によって下地中分を行なった。その意見のように指示するように。
 一、神領・寺領のことは、定勝の納得の上に判形を出すこと。
 一、入国前に、定勝と被官・百姓が借りた銭・米のこと。敵に通じたり、拠点内で規則を破った者には、万一訴訟の事情があって帰り住んだとしても返済はしないこと。
 右の項目を了解し、末永く相違のないように。

広忠出置候給恩之事、右任彼定員数、無相違可令所務、弥如広忠時可抽奉公者也、仍如件、

天文十九年

十月十二日

よしもと 袖判

筧平三とのへ

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(譜諜余録)

 広忠が拠出した給恩のこと。右はあの員数に任せて相違なく徴税すること。広忠の時のようにますます奉公にぬきんでるように。

去年菅沼十郎兵衛尉・同八右衛門尉帰参之刻、林左京進・菅沼三右衛門布里江打入之処、以敵猛勢相勤之旨、夜中令告知人数無相違引取之段、忠節也、因茲菅沼孫大夫給之内、塩瀬内下方六貫文、大豆弐斗、陣夫一人、任去年之判形、永所宛行之、為一所領掌了、至于後年於増分出来者、可令所務、弥可抽忠節者也、仍如件、

弘治三年 九月五日

治部大輔 御判

菅沼左衛門次郎殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(浅羽本系図)

 去る年菅沼十郎兵衛尉と同姓八右衛門尉が帰参した際、林左京進・菅沼三右衛門が布里を攻撃したところ、敵が強襲をもって臨むことを夜中に通報し、軍勢を相違なく撤収させたことは忠節である。このことから、菅沼孫大夫給より塩瀬内の下方6貫文・大豆2斗・陣夫1人を、去る年の判形の通り永く宛行なう。一所として掌握すること。後年に至り増分が出来たら、徴税せよ。ますます忠節にぬきんでるように。

於調儀成就之上者、本知行無相違可令還附候、然者彼一人生害之段、堅可申付者也、仍如件、

七月十七日

義元 判

奥平監物丞殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

 『調儀』が成就した上は、本知行を相違なく還付させるだろう。ということであの者が自害すること、堅く指示するものである。

参河国龍泉寺之内年来拘置屋敷并名田、同付来山等之事

右、如年来不可有相違、然ハ料所其以後福嶋因幡守私領之時茂為各別拘置之間、只今阿部大蔵仁為知行雖出置、可為如前々、但相定年貢之儀者可令納所之、縦地検増分雖申懸、為本知行之条、有由緒拘置上者、不可準他■百姓者也、仍如件、

弘治二年

正月廿二日

  今川義元也、判後藤ノ文書ニ同、

治部大輔 判

上野三郎四郎殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(藩中古文書)

 三河国龍泉寺の内で年来保持していた屋敷と名田、同じく付来山などのこと。右は、年来のように相違ないように。であるから、所領はそれ以後、福嶋因幡守の私領だった時分も各々が別に保持していたので、現在は阿部大蔵に知行として拠出しているものの、以前のとおりにせよ。但し、定められた年貢のことは納所させるように。たとえ検地による増分を出したとしても、本知行とするので、由緒があって保持する上は他の百姓に準じてはならない。

敵味方預ヶ物・俵物并神田、為何闕所之地候共、不有異見候、門外江使入候事、竹木所望・郷質取立候事、一切令免許之上者、末代不可有相違者也、仍如件、

弘治参年

霜月廿七日

上総介

信長(花押影)

熱田祝師殿

→愛知県史 資料編10「織田信長判物写」(田島家文書)

敵味方の預かり物と俵物、並びに神田は、どのような没収地になったとしても、口出ししてはならない。門外へ使いが入ること、竹木の要求・郷質を取り立てること、全て免除する上は、末代まで相違はない。

当知行山中七郷之事

右、先規岡崎江令納所本成、百姓相隠之様、当年於有訴人、本帳之条、急度申付可令所務、惣別去年企可令検地訴訟之間、以印判領掌之処、于今検地云々、先本帳之分令所務、其上雖為何時可令地検、并竹尾源四郎百貫文地之事、於先年以下知当郷内出置之処、今度本帳面相顕之上、彼者過分之私曲明鏡也、百貫文地之内ハ、縦雖為河成、定勝江不相断、以各別之名職之内、恣非可引取儀也、然者源四郎令難渋者、拘置分以奉行人可相改、猶就及異儀之、百貫文之分、以当郷各別之名職可出之、其外野山・市場・屋敷等之事、如岡崎支配可申付、本帳出之上者、各名職相改可所務者也、仍如件、

天文廿三 十月十五日

治部大輔 判

奥平監物丞殿

→静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

 当地行の山中7郷のこと。右は先に決めた岡崎へ納める本成年貢を百姓が隠匿したと今年訴人があった。本帳の件、取り急ぎ指示して徴収するように。総じて去年検地するようにとの企図が訴訟となったので印判によって掌握していたところ、今は検地という。先の本帳の分は徴収し、その上いつでも検地するように。同時に、竹尾源四郎の400貫文の土地のことは、先年下知によって当郷内に拠出していたところ、この度本帳面に出てきたのであの者が私的に過分益を得ていたことは明白である。100貫文の土地は、氾濫原であっても定勝へ断わりもなく、それぞれが別の名職内に自由に引き取ることはならない。ということで源四郎が渋っても、抱えている分は奉行人によって監査するように。さらに異議に及ぶならば、100貫文の分は当郷それぞれ別の名職に出すように。その他野山・市場・屋敷などのことは、岡崎支配のように指示するように。本帳が出た上は、それぞれの名職を改めて徴収するべきである。