覚書:今川氏真が興津彦九郎への家督継承を却下する
後年の氏真は比較的文意の取り易い文書を発行するのだが、家督を継承したばかりのこれ(興津左衛門尉宛判物写)は少し判りづらい。短く区切って解釈の意図を記述してみる。至らぬ点もあると思うので、ご指摘・疑問提起はお気軽に。 今度 …
後年の氏真は比較的文意の取り易い文書を発行するのだが、家督を継承したばかりのこれ(興津左衛門尉宛判物写)は少し判りづらい。短く区切って解釈の意図を記述してみる。至らぬ点もあると思うので、ご指摘・疑問提起はお気軽に。 今度 …
今度彦九郎号上洛、中途迄相越、親類被官人為書起請文、対清房相企逆心、一跡押而可請取之催、甚以不孝之至也、殊一城預置之上者、何時毛不得下知、一跡可請取事、自由之儀也、此上雖為父子納得、彦九郎進退不見届以前之儀者、一跡不可相 …
小田原合戦での両軍の思惑を書き出してみる。便宜上、後北条方を東軍、羽柴方を西軍とした。私が想定する布陣図は以下のようになる。 ■東軍 実際の総指揮は氏政が行なっていたと思われる。これは、氏規宛て書状、猪俣邦憲宛て書状で具 …
「(懸紙ウハ書)松平亀千代殿 治部大輔」 去廿日、父忠茂於保久・大林討死、忠節之至也、知行被官以下、如前々永不可有相違、若被官百姓就有緩怠之儀者、遂糾明可令成敗、其外之事者、父忠茂仁出置如判形領掌了、弥可励忠功者也、仍如 …
芳札令披見候、如来意去十三日雪、北条家茶会之事羨鋪打過処、雪降済候之間、被相招候段、別而致大慶候、宗賀■被差加、於令同伴ハ寔可有興候、明廿五日朝卯刻以参可謝候、恐々、 十一月廿四日 治部大輔(花押) 杉山市蔵殿へ →戦国 …
その1では、地元時代を思い出して色々と書いた。小田原住人からすると、入生田近くまで行って早川を越え急坂を登坂したり、早川駅の向こう側まで行って登るような距離は遠いのだと。 よくよく考えてみても、細川忠興が陣取ったという富 …
「(モト懸紙ウハ書)武田伊豆守 義元」 連々無御等閑毎時御馳走、誠御入魂異于他候之間、於当国山西壱所号岡田地[近年三条殿所務分]進之候、雖些少之儀候、御志計候、弥於無御疎略者本望候、恐々謹言、 六月十九日 義元(花押影) …
[印文「義元」I型]参河国篠原郷永源寺之事 一祠堂寄進田弐町[寮舎共]之事 一買得之田地壱町八段之事[但自此内地頭方江年貢銭参貫六十余納之云々] 一増米弐斗八升余之事 一祠堂之米銭取引之事 一諸寮舎買得之田地、何方仁雖有 …
1982年の夏、中学生だった私は初めて石垣山に登った。何となく入った郷土史研究会の活動で「城跡にでも行ってみるか」ということになり、場所を任された次第。ちなみに、顧問の教師を含めて郷土史に興味のある者は私だけ。2班あって …
遠州笠原庄村岡西方知行内、浜野村後之砂地之事 右、従前々東西両郷分置之地入同以来、宛行知行之砂領主之事、 信家廿ヶ年余令開発雖令所務、今度斎藤六郎衛門以新儀、可為東方之旨申出之条、双方雖遂裁許、依難及分別、以奉行人令点検 …