覚書:今川氏真が興津彦九郎への家督継承を却下する

後年の氏真は比較的文意の取り易い文書を発行するのだが、家督を継承したばかりのこれ(興津左衛門尉宛判物写)は少し判りづらい。短く区切って解釈の意図を記述してみる。至らぬ点もあると思うので、ご指摘・疑問提起はお気軽に。 今度 覚書:今川氏真が興津彦九郎への家督継承を却下する

今川氏真、興津清房に、彦九郎の興津家家督継承を認めないと伝える

今度彦九郎号上洛、中途迄相越、親類被官人為書起請文、対清房相企逆心、一跡押而可請取之催、甚以不孝之至也、殊一城預置之上者、何時毛不得下知、一跡可請取事、自由之儀也、此上雖為父子納得、彦九郎進退不見届以前之儀者、一跡不可相 今川氏真、興津清房に、彦九郎の興津家家督継承を認めないと伝える

遠過ぎる石垣山 その3

小田原合戦での両軍の思惑を書き出してみる。便宜上、後北条方を東軍、羽柴方を西軍とした。私が想定する布陣図は以下のようになる。 ■東軍 実際の総指揮は氏政が行なっていたと思われる。これは、氏規宛て書状、猪俣邦憲宛て書状で具 遠過ぎる石垣山 その3

今川義元、松平亀千代の相続を保障し父の忠節を賞す

「(懸紙ウハ書)松平亀千代殿 治部大輔」 去廿日、父忠茂於保久・大林討死、忠節之至也、知行被官以下、如前々永不可有相違、若被官百姓就有緩怠之儀者、遂糾明可令成敗、其外之事者、父忠茂仁出置如判形領掌了、弥可励忠功者也、仍如 今川義元、松平亀千代の相続を保障し父の忠節を賞す

遠過ぎる石垣山 その2

その1では、地元時代を思い出して色々と書いた。小田原住人からすると、入生田近くまで行って早川を越え急坂を登坂したり、早川駅の向こう側まで行って登るような距離は遠いのだと。 よくよく考えてみても、細川忠興が陣取ったという富 遠過ぎる石垣山 その2

遠過ぎる石垣山 その1

1982年の夏、中学生だった私は初めて石垣山に登った。何となく入った郷土史研究会の活動で「城跡にでも行ってみるか」ということになり、場所を任された次第。ちなみに、顧問の教師を含めて郷土史に興味のある者は私だけ。2班あって 遠過ぎる石垣山 その1

今川義元、興津左近助に、遠江国笠原庄浜野村の砂丘開発仲裁案を伝える

遠州笠原庄村岡西方知行内、浜野村後之砂地之事 右、従前々東西両郷分置之地入同以来、宛行知行之砂領主之事、 信家廿ヶ年余令開発雖令所務、今度斎藤六郎衛門以新儀、可為東方之旨申出之条、双方雖遂裁許、依難及分別、以奉行人令点検 今川義元、興津左近助に、遠江国笠原庄浜野村の砂丘開発仲裁案を伝える