その1では、地元時代を思い出して色々と書いた。小田原住人からすると、入生田近くまで行って早川を越え急坂を登坂したり、早川駅の向こう側まで行って登るような距離は遠いのだと。

よくよく考えてみても、細川忠興が陣取ったという富士山陣場(板橋城)の独立丘陵までが『近い』という認識でよいだろう。

が、小田原合戦での上方勢にはまだ突っ込みどころがある。小田原の海上を埋め尽くしたと言われる水軍の存在だ。これを見た後北条氏が「制海権も奪われた」と嘆いたように書いている本もある。

でも、その水軍に肝心の停泊地がなかったことは余り指摘されない。当時の小田原近辺には大型船が着岸できる港はない。現在ある小田原漁港(早川港)は明治以降に作られたもので、早川河口から酒匂川河口までずっと遠浅の砂浜だった。当然大型の安宅船は無理なので、艀を使って物資を揚陸することとなる。そのポイントに選ばれたのが早川河口右岸の高台ではなかったか、と『小田原市史 城郭編』では推測している。確かに、15万の攻囲軍を養うには海上輸送された大量の物資は必須であり、そのためには揚陸ポイントが要る。ただ、急ごしらえの岸壁と艀のピストン輸送で間に合うのか。

米が1人1日1升と考えて1.5kg、これが人数分だと225トン/日となる。1日10時間連続で荷揚げし続けたとして、1分当たり375kgの速度で運ぶ必要がある。ちなみに4月3日に小田原着陣、7月1日に決着がついたとして90日。累計で20,250トンの米がつぎ込まれた計算になる。福井藩米蔵が1町歩(100m四方)で6万俵(3,600トン)を収容したということなので、その5.625倍が必要となる。実際には副食・調味料のほか、衣料品・弾薬も必要だろうから、3~4倍のロジスティクスは必須だったろう。4倍だとすると、早川の揚陸ポイントには2.25km四方の倉庫群が求められる。

この入出庫管理を迅速に行ない、水之尾から荻窪・多古・今井へと毎日物資を搬送する業務も出てくる。通説では長束正家がこなしたというが、彼だけでこなせるとは思えない。陣没した堀秀政は揚陸地点に近い場所に布陣していたというから、この業務で過労死した可能性もあるのではないか。

但しこれらの揚陸・配給業務も、船が絶え間なく物資を供給可能であるという前提に立っている。小田原沖に来る船は、下田を経由して行き来する際に、黒潮の流れをコントロールする必要がある。航路に不慣れな軍船が多数往復するとなると、安全確保のため輸送速度を落とさざるを得ないと思う。天候にも影響されるため、船舶内の物資・倉庫内に余剰在庫が要る。風雨があるからといって戦闘がなくなる訳でも兵士の腹が減らない訳でもないのだから。

このように、海路を使ったとしても補給には難点が多い。後北条氏からすると、小田原沖を埋め尽くす水軍が出てきたところで、さほどの脅威には感じなかっただろう。海が荒れれば敵が飢えるのも早い。

そこで上方勢は、関白道と呼ばれる箱根越えのハイウェイを構築することとなったのかも知れない。石垣山の占地はこの海陸のロジスティクス(兵站)に合っている。

その一方で、後北条氏はこれを見通していたのではないか。小田原城総構では、早川口から小峯御鐘台にかけて二重戸張という構造が3箇所見られる。

 

これが馬出のような攻撃起点機能を持っていたとすると、荷の揚陸地点を牽制するのにちょうどよい構造ではないだろうか。

 

 

そして、陸路の箱根、海路の下田というボトルネックを抱えた大軍が、ロジスティクスに窮して撤退する瞬間を待っていたのではないか。そのような仮説もまた興味深い。次回は両軍の布陣から戦略を考えてみたい。

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