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今川義元、興津左近助に、遠江国笠原庄浜野村の砂丘開発仲裁案を伝える

遠州笠原庄村岡西方知行内、浜野村後之砂地之事

右、従前々東西両郷分置之地入同以来、宛行知行之砂領主之事、 信家廿ヶ年余令開発雖令所務、今度斎藤六郎衛門以新儀、可為東方之旨申出之条、双方雖遂裁許、依難及分別、以奉行人令点検地形処、彼砂地不分明之旨申之条、東西砂地明鏡之切発分、又者自今以後令開発砂地之田畠、可為兼帯之旨加下知上者、双方立合可所務、此外於芝原者、先規相定之上、開発次第無相違可令所務、山屋敷之儀者、奉行人見届之条、不及異儀、并先年書載地検帳分、近年之切発之地、知行之内無紛之条、如前々可令所務者也、仍如件、

天文廿年十二月廿三日

治部大輔判「右ニ同」

興津左近助殿

→戦国遺文今川氏編「今川義元判物写」(国立公文書館所蔵諸家文書編纂所収興津文書)

 遠江国笠原庄、村岡西方の知行内、浜野村の後ろの砂地のこと。右は、前々から東西両郷が共同で使っていた入会地としており、宛て行なった砂地の領主は20年余の開墾と経営を任せた信家であった。この度斎藤六郎左衛門が新たな宛て行ないによって(砂地の)東方の領有を申し出た。双方の言い分を裁許しようとしたが、明快な理由がないので奉行人を派遣して地形を点検した。そうしたところ、あの砂地は明確には分けられないということで、これから開発される田畠は共同名義となるように指示を与える。この上は双方が立ち会って経営を行ない、このほかの芝原については先の規則で定めたように開墾出来次第間違いなく経営するように。山・屋敷のことは奉行人が見届けるので、異義を挟むな。そして、先年検地帳に記載した土地、近年開墾した土地は、知行として間違いはないのだから、以前の通りにこれを経営するように。

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