芳札令披見候、如来意去十三日雪、北条家茶会之事羨鋪打過処、雪降済候之間、被相招候段、別而致大慶候、宗賀■被差加、於令同伴ハ寔可有興候、明廿五日朝卯刻以参可謝候、恐々、
十一月廿四日
治部大輔(花押)
杉山市蔵殿へ
→戦国遺文今川氏編「今川義元書状」(弘文荘待買古書目二九)
花押形は天文末~弘治頃と推定される。
お手紙ありがとうございます。お書きの通り13日は雪でした。北条家の茶会は羨ましいと思いながら過ごしていました。雪が降り止んだので招かれたそうで、とても素晴らしいことです。宗賀を加えて同伴させるのは誠に趣があることです。明日25日朝の卯刻(午前6時頃)に参上してお礼いたします。
高村さん、ずいぶんご無沙汰しておりました。貴サイトでいつも古文書の勉強を させていただいております。
さて、この度の、書き下し文で、少し気になったところが、2箇所がありまし たのでお伺いいたします。
>羨ましいと思いながら過ごしていました。
本文は、「打過」とありますので、「日数や時間が経過すること」だと思います ので、「羨ましいと思いながらも時が過ぎてしまいました。」のほうがわかりや すいのかなと考えました。
>参上してお礼いたします。
本文は「謝」ですから、「失敗や無礼などをわびること」だとおもわれますので、 「参上してお詫びします」の方が、文章の流れからも自然かなと思いました。
い かがなものでしょうか、お尋ねいたします。
コメントありがとうございます。文意の指摘ですが、語義ではどちらでも取れる範疇かと思います。水野さんは恐らく『茶会に行き損ねた義元が約束破りを詫びに行く予告状』と、この文書を捉えたために、違和感を感じたのではないでしょうか。
解釈では取り混ぜてしまっているのですが、本来は「如来意去十三日雪(北条家茶会之事羨鋪打過処)雪降済候之間、被相招候段、別而致大慶候」という構造だと考えています。括弧内を除いた地の文では杉山書状の内容を繰り返し、それに対して「とてもよかったですね」と書いているのだと思いました。そして、それだけでは意が足りないと考えた義元は「北条家茶会のことは羨ましいと思いながら過ごしていました」という補足を入れているのではないかと。
というのも、13日に小田原にいた杉山市蔵に対し、義元は駿府にいたのだと判断したためです。両者が離れた距離にあったため「13日はあなたがおっしゃるように(こちらも)雪でした」という返答が発生したのだろうと思います。
その後24日以前に杉山は駿府を訪れて義元に書状を出したのだと思います。「翌朝会いに行く」と書かれていることから、杉山が義元の近傍にいたことは確実だと考えられます。宗賀は名前から連歌師のことでしょう。義元には珍しく「早く会いたい」という感情が入った書状です。
ちなみに杉山氏は今川・後北条どちらにも見られる名前なので、帰属は判断できませんでした。
私も試行錯誤で解釈をしておりますので、疑問点がありましたらどんどんご指摘いただけると助かります。宜しくご確認下さい。
高村さん、ご丁寧な解説をいただきありがとうございました。
そのとおりでして「予告状」としてのみとらえておりました。
高村さんは、いつもただ一通の古文書から、その背景にまでご配慮の行き届いた書き下しをされており、とても参考になります。
余談ですが、何度かに一回程度でいいので、今般解説くださったような補説も書き込んでいただけたら、私のような者にもわかりやすいのでかと思いました。
再びのコメントありがとうございます。実は今回の解釈では自身の土地鑑が入っていたりします。静岡市と小田原市はさり気なく遠いので、雪の話題は肌感覚で織り込んでいました。ですから他地域の出身者には判りにくいですよね。こういうことも含めて考えると、自分の解釈は説明不足だと痛感します……。
補説の書き込みはずっと以前に検討してみたのですが、文書ごとにつけると前後で矛盾が出たり、異なる解釈をとっていても自覚できないというデメリットがあったので踏み込んでいません。とはいえご意見はいただけるとありがたいので、前に1度行なった別エントリーでの解釈再現をまたやってみます。何か気になる点がありましたら、疑問点でも異説でもお気軽にコメント下さい。これからも宜しくお願いします。