[懸紙ウハ書]「井出千代寿殿 治部大輔」
駿河国冨士上方之内、井出甚右衛門尉知行稲葉給、并被官百姓居屋敷之事
右、甚右衛門尉女子松千代爾、就令契約、為一跡彼地代々証判相副、如前々一円譲渡之旨領掌、向後不可有相違、同道者坊之事、如年来可相拘之、但弐貫五百文充之儀者、為造営分、毎年大宮代官江相渡、其上或実子出来、或自余之聟・親類・縁類等、雖企競望、甚右衛門尉譲状明鏡之上者、一切不可許容、若彼契約旨於令違変者、甚右衛門尉借置米銭、速令沙汰、知行松千代女へ可還附、彼知行内宮分神事諸役等、如前々不可令怠慢、至無沙汰者、宮分可令改易、守此旨、弥可令奉公之状如件、
天文弐拾三[甲寅] 四月廿四日
 治部大輔(花押)
井出惣左衛門尉子 千代寿殿

→戦国遺文今川氏編1165「今川義元判物」(杉並区今川・観泉寺所蔵浅川井出文書)

 駿河国富士上方のうち、井出甚右衛門尉知行の稲葉給と被官百姓の居屋敷のこと。右は、甚右衛門尉の女子松千代に契約して、一跡としてあの地に代々証文が副えられ、前々のように一円譲渡の旨掌握して、以降は相違があってはならない。同じく道者坊のこと、年来のように保持するように。但し2貫500文分のことは、造営分として毎年大宮代官へ渡すように。その上で、あるいは実子ができ、あるいは他の婿や親類・縁類などが望んだとしても、甚右衛門尉の譲状が明確なので、一切許容しない。もしこの契約に違反する場合は、甚右衛門尉の負債を速やかに処分して、知行を松千代へ還付するように。この知行のうち宮分神事の諸役などは、前々のように怠慢することがないように。無沙汰に至るならば、宮分は改易させる。この旨を守り、ますます奉公するように。

今度上総行之砌、於殿太田源五郎越度刻、其方伯父賀藤源左衛門尉見届討死候、誠忠節不浅候、於氏政感悦候、然間一跡福可相続、然共只今為幼少間、福成人之上、相当之者妻一跡可相続条、其間者、源次郎可有手代者也、仍如件、
永禄十年[丁卯] 九月十日
 氏政(花押)
賀藤源左衛門尉息女
 福
賀藤源二郎殿

→小田原市史資料編692「北条氏政判物写」(武州文書十五)

 この度の上総国作戦の際、殿軍において太田源五郎が戦死した時に、あなたの伯父賀藤源左衛門尉が見届けて討ち死にしました。本当に忠節は浅からぬものです。氏政においては感悦しました。ということで一跡を福が相続するように。とはいえ現在は幼少なので、福が成人した上で、見合った者の妻として一跡を相続するよう。その間は源次郎が手代となるように。

原文はhttps://old.rek.jp/?p=7544。

このかた、てきけひいて候て、せひなく候、

出だしからいきなり難物なのだが、「てきけひいて」をどう読むかが判らない。関連文書の為敵船後巻、数艘令渡海以下の部分から「敵の警固船」が関連しているのだろうという予想は立つのだが、類似の文が見つからず具体的にどのような漢字が当てられるのかを決められずにいる。豊前市史では「敵下ひいて」と示唆している。何れにせよ、「この方、敵の警固船がいて致し方ありません」という程度の意で良いと思う。

さりなからゝゝめつらしき事ハ、あるましく候、まゝ、御こゝろやすく候へく候、

「とはいえ珍しいことではありませんので、ご安心下さい」この解釈は特に問題はない。

ちんちうのきたうにて候まゝ、一ふてくたしおき候、

この文は前段の「特殊な事情が起きた訳ではない」を補強する文となる。「陣中の祈祷があるので、一筆申し上げました」という文は平易で解釈に問題なし。ただ、相手を落ち着かせようと細かく事情を書き立てている点は、必死さを感じる。

このき御きやうてん候ましく候、ゝゝ、けん大郎ことわたり候、

相手に平静を訴えつつ、子息と見られる「けん大郎=源太郎」が宮島に渡ったことを告げている。「このことで驚かれませんように」と「源太郎は渡海しました」の間にある「ゝゝ」記号が、隆兼のためらいを感じさせる。

きよ水又むせやらん、

紹介書によっては「水を咽るほど驚くでしょうか」としているものもあるが、「又」とあることから、前にあったことが繰り返される前提がある。そして、弘中氏の縁者と思われる清水寺尊恕という存在が知られている(大内輝弘、清水寺尊恕に知行を約束する)ことから、「きよ水=清水寺」と考えてよいように思う。この書状の宛所にも清水寺は入っている。

多分に推量が含まれるが、清水寺尊恕は隆兼から「せいすい」と呼ばれており、さらに泣き上戸・過保護・世話焼きな人だったのではないだろうか。源太郎を死地に伴ってしまった事の重大さは隆兼もまた認識していたからこそ「こん」に伝えたかったのだろうけれど、伝えた後で不安に押し潰されることを避けるため、「感情豊かな尊恕が知ったら、また大げさにむせび泣くでしょうか」と心配が杞憂であることを納得させようとしている。

つしまニよほくところへ、あてところにて候、

ここにある「よほく」は全く判らない。対馬守は別の清水寺・無量寺宛書状で、宛所に「弘中対馬守殿」とあるので一族の有力者だろう。用例がないため言い切り難いが、全体の文意、関連書状から推測すると「よほくところ=主だったところ」という意味かと考えている。

むめれう人ある事に候、頼申おくとの事候、

「梅を料人にすること、頼みを伝えておくと伝えました」で問題ないだろう。関連文書でも確かにそれを委託している。

めてたき■■■申候へく候、

「めでたい■■■をお送りしたいと思います」となる。消えた部分には「知らせ」を推定している。これは他文書の「しせんよきちうしんもあるへく候やとまち入」「吉事可申候」と合わせた形になる。勝負は判らないのだから、「吉報を待て」が自然だろう。

なをゝゝ申候、

ここから先は追伸となる。

むめれう人ある事に候、まゝ人体之事ハ、それの御はうたいにて候へく候、

「むめ=梅」を「れう人=料人」とすることとし、続けて「人体=身柄」はそこの「御はうたい=御法体=出家」にするようにとも指示している。料人にしてほしいというのは、財産相続権を持てる身分の女性にしてほしいということで、その希望は「大内義長の相続許可」で叶えられている。そして、その相続後は仏門に入ってほしいとしている。諸書で「然るべき相手と結婚するように」と解釈されているが、その場合は婿なり嫁なりと書く筈なので、隆兼の意図としては相続・出家だと見てよい。

かやうに申候とて、きやうてんハあるましく候、申候やうに、ちんちうのならいしか候、まゝ申事候ゝ、

このくだりは、再び「こん」を宥めるための文言が続く。「陣中の習いで言っているに過ぎない」と言いながら、何度も「驚くな」と書いているのは、隆兼がこういった書状を書いたのはこれが初めてだったからだろう。

こんとの動かるゝとすも■■■神領衆又けいこ三浦なと申て、

この文で読みづらいのは「すも■■■」で当初は「相撲人」としていたが、トロロヅキさんのコメントで「すもし候へ=となるだろう→推量」ではないかというご指摘をいただいた。得体の知れない相撲人より意が通りやすいので「今度の作戦は楽々できるだろうと神領衆や警固・三浦などが言って」と変更した。

如此候、口惜候、

「このようになりました。悔しいことです」というこの一文に隆兼の無念さが凝縮されているように感じる。ここまで踏み込んだ言葉は、清水寺・無量寺宛では書かれていない。

古はくになかもちおき候、しせんの時ハめしよせ候へく候、又太刀も古はくに候、とりよせ候へハ候、

ここからは財産分与の指示なる。琥珀院に、万一を考えて長持を置いているという。この長持の存在を「こん」が普段から知っていたらこの指示はないだろうから、緊急時には琥珀院から返却される段取りになっていたのだろう。ただやはり心配で、長持・太刀の存在を「こん」に伝えている。

林際寺僧衆、対朱印相出之上、当軍勢甲乙人等、聊以不可異儀、若於此旨違背之輩者、速可加成敗者也、仍如件、
天正十年 三月三日[印文「福徳」]
本多庄左衛門 奉之

→1499「徳川家康朱印状」(臨済寺文書)

 臨済寺の僧衆は、対して朱印を出した上は、当軍勢の甲乙人などは少しの間違いがあってもならない。もしこの旨に違背する者がいれば、速やかに処罰するものとする。