同名与八郎下地を捨候歟、然者、彼拘如前ゝ致、一人相拘可然候、若及莵角ともからあらハ、早ゝ可註進候、速ニ預之候、為後日出一札候、謹言、
拾二月廿三日[印文未詳]
鈴木七郎殿

→戦国遺文 後北条氏編4984「某印判状」(鈴木弘氏所蔵文書)

 同じ名字の与八郎が下地を捨てたのでしょうか。ということで、あの所有を以前のようにするならば、1人で所有するのがよいでしょう。もし苦情を言う者がいれば、早々に報告して下さい。すぐにこれを預かります。後日のため一筆お出しします。

森山表穀留之事、如先規堅可被申付、万一大途用所之儀者、以印判可申出者也、仍如件、
追而、先証文両通返遣候、以上、
己丑八月廿四日[「有効」朱印]
 山角紀伊守 奉
原若狭守殿
同大炊助殿

→戦国遺文後北条氏編3488「北条氏政朱印状」(千葉市立郷土博物館所蔵・原文書)

天正17年に比定。

 森山方面で穀物を留めていること。先の規則の通り堅く申し付けられました。万一大途(北条氏直)が必要とする場合は、印判で申し出るものとする。

 追伸:先の証文2通は返します。以上。

林際寺僧衆、対朱印相出之上、当軍勢甲乙人等、聊以不可異儀、若於此旨違背之輩者、速可加成敗者也、仍如件、
天正十年 三月三日[印文「福徳」]
本多庄左衛門 奉之

→1499「徳川家康朱印状」(臨済寺文書)

 臨済寺の僧衆は、対して朱印を出した上は、当軍勢の甲乙人などは少しの間違いがあってもならない。もしこの旨に違背する者がいれば、速やかに処罰するものとする。

当方上洛之儀、自京都依御催促、此度及御返答之間、彼御挨拶心腹ニ相叶ニ付而者、来冬之極月、御陰居可為御上洛候、依之二三ケ条之筋目、口上ニ申付候、仍如件、
六月廿三日[虎朱印]
和田左衛門尉殿

→小田原市史1946「北条家朱印状」(埼玉県鴻巣市・鈴木和男所蔵)

天正17年に比定。

 当方の上洛のこと。京都よりご催促があってこの度ご返答に及ばれたので、そのご挨拶が心服に叶うには来る冬の12月にご隠居がご上洛しなければならない。このことで2~3箇条の指示を口頭で行なう。

[印文「如律令」]年来免許棟別四間事
右、今度惣国免許棟別為一返之儀申付之処、無異儀所令沙汰也、然者雖有先印判、火電時令焼失云々、雖残書戴于免許帳之旨奉行申状明鏡之間、重而所成■■■[印判也]、自今以後年来押立人足・竹木見伐以下一円■除訖、永不可有相違者也、仍如件、
永禄六[癸亥] 八月廿一日
土岐次郎助

→戦国遺文 今川氏編1928「今川家朱印状」(静岡市葵区紺屋町・駿府博物館所蔵文書)

 年来免除している棟別4間のこと。右はこの度国全体で、免除していた棟別を解除することが指示されており、異議なく処理するものである。ということで先の印判があったとはいえ、落雷で消失したとかいう。所載が残るとはいえ、免許状の趣旨について奉行が言っていることが明確であるため、再び印判を発行する。これ以後は年来押し立てている人足・竹木の伐採以下を包括して免除する。末永く相違があってはならない。

[印文「如律令」]棟別之事
右、今度就三州急用免許之棟別、一返悉雖取之、両人事者依勤陣参、不準地下人之間、永免除畢、向後免許棟別雖相破之、両人儀者不可有相違者也、仍如件、
永禄六[癸亥]
杉山小太郎殿
望月四郎右衛門殿

→戦国遺文 今川氏編1908「今川氏真朱印状」(杉山文書)

 棟別のこと。右はこの度、三河国急用について免許した棟別を、解除して全て取り立てることとなったが、両人のことは陣参を勤めたことにより、地下人に準じないので、末永く免除する。今後棟別の免許が破棄されるとしても、両人のことは相違があってはならないものとする。

今度籠城中、匂坂甚大夫・暮松三右衛門尉、従其地為飛脚節々往還、神妙被思召候、依之彼両人、於駿州三拾貫文并遠州相良之内三拾貫文所、被充行畢、致配当弥励戦功候、可被申付之由、被 仰出者也、仍如件、

天正九年[辛巳] 正月十七日[竜朱印]

 跡部尾張守 奉之

岡部丹後守殿

→戦国遺文 今川氏編2612「武田家朱印状」(土佐孕石文書)

定め書き。この度籠城中に匂坂甚大夫・暮松三右衛門尉がその地より折に触れて往復し、神妙であるとの思し召しです。これにより、あの両人に駿河国で30貫文と遠江国相良の内で30貫文の知行を与えられました。配当してますます戦功を挙げるよう申し付けよとのこと、仰せになっています。

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其方本屋敷并義元隠居屋敷被下置候、自今已後私宅等被相構、可有居住之由、被 仰出候者也、仍如件、

元亀四[癸酉] 十一月廿日[竜朱印]

 跡部大炊助奉之

岡部丹後守殿

→戦国遺文 今川氏編2547「武田家朱印状」(藤技市郷土博物館所蔵岡部文書)

定め書き。あなたの屋敷と今川義元の隠居屋敷をお与えになります。これ以後は私宅などを構えて居住するようにとのことです。

[印文「如律令」カ]以只今氏純前々子細言上、所得其意也、然者於向後者、為被官一分、可令相当之奉公者也、仍如件、

天文廿二年 四月廿三日

鈴木甚三郎殿

→愛知県史 資料編 補181「今川義元朱印状」(鈴木重信氏所蔵文書)

ただいま氏純が前々の事情を報告したことで、その意を得るところである。ということで今後は被官の身分となし、相応の奉公をしていただきます。

[印文「幸菊」ヵ]れうしよさゝまの郷かミかうち村の内ニをひて、ほうそうゐんれう壱貫八百文地の事

右、龍雲寺殿ゐんはんの旨ニまかせて領掌也、小庵再興、れうん寺まつ寺として、しゆりつとめ、以下たいまんなきうへハ、けん地そうふんのさたなく、代官のいろひをちやうしし、なかく院務たるへき事、相違あるへからさるなり、仍如件、

ゑいろく十一年つちのへたつ

霜月十一日

峯臾院

→戦国遺文 今川氏編2194「早川殿朱印状」(島田市川根町笹間・下岡埜谷氏所蔵峰叟院文書)

 料所である笹間の郷、上河内村の内において、峰叟院領1貫800文の地のこと。右は、龍雲寺殿印判の趣旨に添って統治せよ。小庵の再興は、龍雲寺末寺として修理に努め、以下怠慢がない上は、検地で増分しても徴税措置はしない。代官の搾取を取りやめさせ、末永く院務となることは、相違があってはならない。