松平家を守った「しんさう」
井伊谷の幼主である次郎法師について以前考察したが、同様のことがその10年以上前に岡崎で起きていた。 1556(弘治2)年に大仙寺の寺領が脅かされた事件である。まず時系列で見ていく。 6月21日今川義元、三河国大仙寺の寺領 …
井伊谷の幼主である次郎法師について以前考察したが、同様のことがその10年以上前に岡崎で起きていた。 1556(弘治2)年に大仙寺の寺領が脅かされた事件である。まず時系列で見ていく。 6月21日今川義元、三河国大仙寺の寺領 …
『細江町史資料編4』に所収されている『井伊家伝記』の説明は以下。 最近、龍潭寺へ合併された中川の大藤寺に所蔵されていた文書で、祖山和尚が当時の古記録や言い伝えを基に、井伊家の由緒を正徳五年八月十五日に書き上げた草校で、 …
遠江国の国衆である井伊氏については、永禄年間は今川方に付いていることが確認できる。しかし、その後1582(天正10)年に徳川家康側近として井伊直政が現われるまでの事蹟は伝わっていない。今川方として井伊谷で最後に活動して …
定 今度長篠籠城之砌、励無類之戦功、頸一被討捕条、神妙被思食候、殊去月於井伊谷、別而忠信之由御悦喜候、然而三州御本意之上、於西三河之内、必須相当之地一所可被宛行之趣、被仰出者也、仍如件、 元亀四[発酉] 十一月廿三日 …
以幸便染一筆候、仍敵于今長篠在陣之由候条、自去廿三日至今日、打続人数立遣候、小笠原掃部大夫并自当府、先日今福・城・横田等差立候キ、又今日も武藤喜兵衛尉・山県善右衛門尉出陣候間、万端有談合堅固之儀肝要候、勝頼も上信之人衆引 …
急度染■■■[一筆候]、■■[仍而]敵地内通之族如申越者、於其■■■■[地謀叛之]輩就有之、其地へ成揺之由候、城内之用心不可有由断候、自然三十六人衆之内、謀叛之輩可有之歟、不審ニ候、高野被相談、用心等可被入于念候、為其越 …
長篠之模様無心許之旨、節々被入芳札快然ニ候、去五日其表御旗本陣場ヘ打出之由候、遠州動之衆者、直二俣通長篠へ可出勢之旨、成下知候、然則勝利無疑候、吉左右自是可申越候、恐々謹言、 九月八日 勝頼(花押) 真田源太左衛門尉殿 …
其已後之行如何、聞届度候、仍敵于今長篠在陣之由候条、其許之動有工夫、如何様ニも家康其表へ分人数、長篠後詰ニ成候之様、穴左・消遙軒・朝駿・岡丹・岡次等有談合、調略尤ニ候、畢竟二俣へ付飛脚、家康引間迄退散之有無被聞届、可被入 …
服部中宛行本知行分之事 合百弐拾貫文 此内 百貫文者遠州刑部村 弐拾貫文者参州岡村 右、年来戦忠明鏡之上、今度境目就調略、若於討死者、宛行知行分、息子つう丸ニ可申付、彼者幼少之間者、安孫刑部右衛門以異見、知行分所務も …
宛行知行之事 右、白須賀郷并長屋郷田畠・野山・船綱等、不准自余相除之、彼郷中見出聞出之田地等、一円勝重可為計、然者去ル戌年高天神籠城之時節、凌敵地及数ヶ度令通用、不顧身命忠節、為其賞彼知行出置候、永不可有相違、守此旨弥可 …