遠江国の国衆である井伊氏については、永禄年間は今川方に付いていることが確認できる。しかし、その後1582(天正10)年に徳川家康側近として井伊直政が現われるまでの事蹟は伝わっていない。今川方として井伊谷で最後に活動していたのは次郎法師だが、この人物については伝承が多く、同時代史料のみの手堅い推論が見当たらなかった。そこで、この人物を検討してみる。

 井伊次郎が初出するのは、1564(永禄7)年の年貢割付だ。

井伊次郎法師、祝田年貢の納付先を指定する

 この文書で「次郎」という言葉は出てこないが、文書名が「井伊次郎法師年貢割付」となっているため挙げてみた。裏の貼紙で「永禄七年甲子七月六日割付 万千世様御証文」とあり、後筆ではあるが次郎法師が直政であると示している(万千代は井伊直政の幼名)。直政は永禄4年の生年が伝わっている。もし直政であればこの時に万千代から次郎法師へと改名したこととなる。但し元服はしていないだろう。元服前に活動する例としては、ほぼ同時代・同地域の菅沼小法師がいるため、万千代が次郎法師である解釈は妥当だろう。

 ここでは井伊谷の南部にある祝田120貫文の納付先が書かれている。井伊一門が25貫文、家臣の小野源一郎が15貫文でその同族の小野但馬が3貫文となっている。小野家では受領名を名乗る但馬が上位だと思われるが、ここで小禄となっているのは、祝田では源一郎の知行が多かったということだろう。

 小野氏はこの後の文書でも井伊被官として登場する。『井伊氏と家老小野一族』(井村修)によると、龍潭寺に小野七郎左衛門古隆の建立した小野玄蕃朝直の笠塔婆が残されているという。

正面 永禄三庚申
 永定院心臾威安居士
五月十九日
俗名小野玄蕃
裏面 玄蕃五代孫 井伊兵部小輔
家臣 小野七郎左衛門造立

 小野七郎左衛門は正徳年間(1711~16)に出てくる人物なので、かなり後世の人間である。『一八世紀前半遠州井伊谷における由緒の形成について』(夏目琢史・一橋大学機関リポジトリ)によると、与板藩家老であった七郎左衛門は井伊谷にかなり詳しく、能動的に龍潭寺に関わろうとしている。小野玄蕃という人物が鳴海原(桶狭間)で戦死したことはある程度信用してよいように考えられる。そうなると、直政の父と思われる人物も永禄3年5月に戦死し、その翌年に産まれた直政が3歳になるのを待って文書発給を始めたという推測が引き続いて得られるだろう。

 ついで現われるのが1565(永禄8)年9月15日。龍潭寺への寄進状で、「次郎法師」と名乗って印文未詳の黒印を押している。

井伊次郎法師、龍潭寺寄進地を確定する

 この文書名として「井伊直虎置文」とあるが、単なる寄進状を置文としている点から考えて「次郎法師=直虎」という信憑性は低い。「道鑑討死之後」「信濃守為菩提所建立」という文があるが、この人物が直政の父親かも知れない。

 この後、永禄9年に今川氏主導で遠江国で徳政が行なわれる。井伊谷ではこの年に文書が残されていないが、翌年には影響が出始める。

今川氏真、瀬戸方久に、買い取った土地の保証をする

 井伊次郎は出てこないが、後に関係するため挙げておく。日付は永禄10年10月13日。これから何度も出されることになる、瀬戸方久の買収地保証書の初出である。

 瀬戸方久は井伊谷の瀬戸に住んでいた商人と思われ、何とかして前年の徳政を覆そうとしていたのだろう。今川氏真に直接判物を出してもらっている。しかし、氏真が書いたのは「信濃守代々令忠節之旨申之条」であって、徳政回避の文言はない。そもそもこの文書は宛て先を欠いており、方久が偽って次郎法師名で土地保証を得て、証文だけ改修した可能性が高いように見える。であれば、「信濃守の代々忠節に免じて」という文も納得がいく。解釈に慎重さが求められる文書だろう。

 それと並行して、極秘で匂坂直興が動いている。小野但馬とともに駿府で訴訟活動していることを、井伊谷の祝田禰宜にその年の12月に報告している。

匂坂直興、祝田禰宜に、徳政が認可されるとの状況を伝える

 「調整に時間がかかり、年を越してしまうだろう」と述べているが、買収地の確保を目指す瀬戸方久とは相反する活動である。

 この書状を出した匂坂左近直興もよく判らない。井伊谷関連でしか登場しない人物で、「直」の通字を名乗っているということから、井伊氏と関係があるように見える。幼児の直政に取って代わることはなかったので、今川氏の指示で直政同心につけられた匂坂一族としてとりあえず考えておく。

 その翌年と思われる6月30日「匂坂直興書状」で次郎法師が言及される。

匂坂直興、祝田禰宜に、徳政推進の状況を伝える

解釈文を詳しく見てみる。

 あの一件を色々と越後殿へ申しました。先年御判形で決まったことですから、御切紙をお送りいただいても構わないのですが、私たちが御奉行のもとで裁許を受けて、御披露する前に何を仰せなのか、また、次郎殿ことを何かとお心がけになるなら、小野但馬守へ申して、次郎殿ご存分を確実に聞き届けて、早々にご指示なさるのがもっともです。次郎殿から関口氏経へお伝えになるよう、小野但馬守へ申されますように。私の方からも小野但馬守へそのことを申します。たとえ次郎殿より関口氏経へご連絡がなかったとしても、小野但馬守より『安助兵』まで「もっともである」との御切紙をお送りになるように。次郎殿もそれを使って関口氏経へ申し上げますように。小野但馬守へよくよく相談なさいますように。

 あの一件というのは、年末から訴えている徳政推進だろう。越後殿は不明。直興が、恐らく駿府へ直訴しようとした祝田禰宜に対して、言い分があるなら次郎殿から関口氏経に報告するのが筋で、そう計らうように小野但馬へ自分からも言っておくとしている。現地は次郎殿を飛び越して案件を上げようとしていたのを、直興が懸命に押し留めている形だ。瀬戸方久への氏真文書で仄見えた構図がはっきりと姿を現わす。事の是非よりも、組織の指揮系統をとにかく重視しなければならないほど、次郎法師の統治能力は低迷している。補助役の小野但馬が機能しているようにも見えない。また、半年経っても進まない訴訟に祝田禰宜が相当苛立っている様子も伺われる。

匂坂直興、祝田禰宜に、徳政執行に当たり礼物を出すことを要求する

 「徳政之事すまし候」という吉報が祝田禰宜に出されたのは8月3日。直興は、関口氏経が対応するとしている。その際に色々と経費がかかることを伝えているのがメインだが、銭主=商人が暫く難渋するだろうとか、陣銭は商人とは関係ないとか書いているため、徳政を推進する側に直興・祝田禰宜がいたと判る。特に直興は「この年来、御百姓衆よりも私が悔しく思っていたので本望です。百姓衆は私が努力したことはそれほどご存知ないでしょう」とまで書いている。直興はここまで深く関わっていたのだ。

 翌日付で関口氏経から約束どおり判物が出される。宛て先は「井次」。

 寅年=永禄9年に徳政が行なわれた筈なのに、井伊一門の主水佑が私意で免除し、祝田・都田で施行されていなかったことを指摘し、商人の思惑は考慮せず徳政を実行せよと命じている。

 前日の直興書状でも触れられていたが、同様の判物が井伊氏の一門・家臣に宛てて出されている。念を入れたということか。

 これで一件落着かと思いきや、9月14日に氏真から方久に徳政免除が出されるという、とんでもないことが起きる。氏真の言い分は、前回のような曖昧なものではなくなっており、明らかに徳政回避の言質を与えている。

今川氏真、瀬戸方久に、井伊谷で買い取った土地を保証する

去る丙寅年に谷全体で徳政のことで訴訟があったとはいえ、方久が買い取った分は次郎法師家老の誓紙、井伊主水佑の一筆で明瞭であるから、今まで買い取った名職・永地は、証文の通りに末永く相違がないように。ということでこの度新城を築造しているので、根小屋・蔵の建設を負担するので商売の税は免除する。

 新城の築造費用を全て方久に負わせる一方で、徳政からは除外するという方針。これまでに奮闘してきた匂坂直興の努力が水泡に帰した瞬間だ。しかし、これに反発したのが関口氏経で、何と氏真に反する判物を11月19日に出している。

関口氏経・井伊次郎法師、祝田禰宜・百姓に、徳政の実効を保証する

祝田郷の徳政のこと。去る寅年に御判形によってご命令になったとはいえ、銭主が抗議して今も落着しない。本百姓が訴訟してきたので、先の御判形のとおりに許容しない。

 今川政権の末期症状とでも言おうか。今川家当主が保証した徳政免除を今川一門の重臣が否定している。この時、氏経は証文の実効性を上げるためか「次郎直虎」と連署している。これまで「次郎」「次郎法師」としか呼ばれていなかった人物に、いきなり実名が付けられた形だ。

 但し、この実名と花押は氏経による偽造だろう。『静岡県史 資料編』ではこの時の花押を紹介しているが、直虎の花押は歴代井伊氏、さらには直政のものと比べて全く形状が異なる上、複雑で大きな形状をしており違和感があり過ぎる。「直虎」という実名は、「寅年の徳政」に絡んだことに引っ掛けたか。

 実名に寅・虎が付く者は寅年生まれであることが多いようで、酉年生まれと伝わる直政には相応しくないように感じられる。1554(天文23)年の寅年生まれだと1568(永禄11)年に14歳なので、元服して直虎を名乗っても違和感がないが、そのような人物はいない。やはり「直虎」の実在性はかなり低いのではないか。露見したら謀叛にも近い行為だが、今川政権の中心部は混乱を極めていて、それを見越した偽造だったのかも知れない。

 国衆に対して徳政を指導できなくなっている今川氏にもはや猶予は残されておらず、この文書を最後に井伊谷において井伊・今川が現われることはなくなる。

12月12日に徳川家康は菅沼二郎衛門・近藤石見守・鈴木三郎太夫に起請文を与えて遠江先導を依頼。次の舞台が幕を開けた。

徳川家康、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時に、井伊谷侵攻に当たり知行を拠出することを約す
徳川家康、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時に、遠江国の知行を与える

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2 comments untill now

  1. 「後筆ではあるが」「永禄七年(1564)甲子七月六日割付 万千世様御証文」ですか。
    虎松が万千代になったのは、天正3年(1575年)ですから、それ以降の注釈かな。

  2. コメントありがとうございます。「虎松」はよく見かけるのですが、一次史料に関連しては出てこないのです。幼名を改名するのは珍しいので、もし史料的に裏づけがあるなら面白いなと思っています。ちなみに、1517(永正14)年に寄進状を出した「井伊千代寿」という例がありますので、「万千代」につながるかも知れません。

    井伊直政は仮名を名乗っていないという特殊な人なので、追っていくのは難しそうですが、判ることがあれば縷々記述していこうと思います。