コンテンツにスキップ

武田勝頼、山県昌景に、徳川家康を長篠攻撃に注力させるよう依頼する

其已後之行如何、聞届度候、仍敵于今長篠在陣之由候条、其許之動有工夫、如何様ニも家康其表へ分人数、長篠後詰ニ成候之様、穴左・消遙軒・朝駿・岡丹・岡次等有談合、調略尤ニ候、畢竟二俣へ付飛脚、家康引間迄退散之有無被聞届、可被入人数事肝要候、長篠表後詰之儀者、人事相調候故、廿三四之間、敵陣辺迄陳寄候由候之条、定而之間、是非可有之歟、以此旨其表之行、示合候之様肝煎尤候、為其遣早飛脚候、但半途迄被納人数候者、不及是非候、恐々謹言、
八月廿五日
 勝頼(花押)
山県三郎右兵衛尉殿

→戦国遺文 武田氏編2155「武田勝頼書状」(尊経閣文庫所蔵文書)

天正1年に比定。

 それ以後の作戦はいかがでしょうか。お聞きしたく思います。さて敵が現在長篠に在陣しているとのことですから、あなたは動きを工夫して、どのようにしても家康がその方面に兵数を分けさせ、長篠の後詰になるように、穴山信君・武田信廉・朝比奈信置・岡部元信・岡部正綱たちと相談して、調略するのがもっともです。結局、二俣へ飛脚をつけ、家康が引間まで退却したかどうかを聞いて、部隊を入れるようにするのが大切です。長篠方面への後詰のことは、人事を調整します。なので、23~24の間は敵陣の辺りまで陣を寄せているとのことですから、期日中はぜひこうしてもらえないでしょうか。この趣旨でその方面の作戦を示し合わせるよう肝煎りすることがもっともです。そのため早飛脚を派遣します。但し途中で兵員を納められたらどうしようもないことです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です