三木於引切此方へ走舞候、祝着候、然ハ親名田為給分出置候、別而走舞候へく候、仍如件、

天文十二年六月十六日 御書判

大竹源六殿

→愛知県史 資料編10「松平広忠判物写」(記録御用所本古文書)

 三木において引き切り、こちらへついて奔走し、祝着です。親の名田を給与として与えます。ことさらに奔走するように。

三木於引切、此方へ走舞令祝著候、然者弐十貫遣候、別而走舞へく候、仍如件、

天文十六年

六月六日

広忠

鳥居仁左衛門とのへ

→愛知県史 資料編10「松平広忠判物写」(鳥居家文書)

『三木』は松平信孝と比定。同内容の他文書から、1543(天文12)年の誤記かと思われる。

 三木に引き切るにおいて、こちらへついて奔走し、祝着です。ということで20貫を差し上げます。ことさらに奔走するように。

今度三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠於子々孫々忘間敷候、然者為給恩、万疋之知出置候、雖為何儀候、於末代不可有相違候、在所者別ニ日記出置候也、

天文拾六年

十月廿日

広忠 御在判

筧平三とのへ

→愛知県史 資料編10「松平広忠判物写」(譜諜余録)

 この度三左衛門を殺害したことは忠節比類がありません。この忠義は子々孫々においても忘れてはなりません。ということで恩賞として10,000疋の知行をお出しします。どのようなことがあったとしても、末代まで相違がないように。在所のことは別途記録を出しておきます。

参河国山中新知行之事

右、医王山取出割、就可抽忠節、以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、彼地之事、永不可有相違也、弥可専勲功状如件、

天文十六

八月廿五日

今川義元也 治部大輔判

作手仙千代殿

藤河久兵衛尉殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

 三河国山中新知行のこと。右は、医王山砦の際、忠節にぬきんでるべきことについて、先の判形をもって給与の上、当国は東西の紛争で時によって変化があるとはいえ、あの地のことは永く相違ないように。ますます勲功を専らにするように。

■年於参河国今橋城、令内通存忠節、任契約之旨、細谷代官并給分■拾貫文令補任之、

右、任雪斎契約之旨、所充行之也、■可抽忠節之状如件、

天文十六

二月三日

治部大輔(花押影)

野々山甚九郎殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(野々山文書)

 先年(?)三河国の今橋城にて、内通し忠節を発揮した。契約内容の通り、細谷の代官職と給地数十貫文を与える。
 右のように雪斎の契約通りに地所を給与する。ますます忠節にぬきんでるように。

今度依忠節、当城扶助員数、代官等為替地、細屋郷可被捕任也、出仕之上御判■■沙汰者也、仍如件、

 天文十五

 十二月十四日

 雪斎 崇孚判(花押影)

 野々山甚九郎殿

右ハ折紙也、

→愛知県史 資料編10「太原崇孚判物写」(野々山文書)

 この度の忠節により、当城へ兵を増派する。代官などの替地として、細谷郷を補任するであろう。出仕の上で判形を沙汰するものである。

去年息千々代・同名親類等依忠節、新地山中七郷充行分[但此内百五十貫文、竹尾平左衛門割分除之、]本知行并遠江国高部給分、弟日近久兵衛尉知行分、同去年配当形之厚分等之事

右、依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細申分、則実子千々代為人質出置、抽忠節上、抛先非如前々所充行之也、弥可専忠信之状、仍如件、

天文十七戌申年正月廿六日

治部大輔判

奥平監物丞殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)

 去る年、息子の千々代と同姓の親類などの忠節により、新地山中七郷(但しこの内150貫文は竹尾平左衛門割当として除く)。本知行と遠江国高部の給分、弟日近久兵衛尉知行分、同じく去る年配当の形原分などのこと。
 右は、この度久兵衛尉の謀反が露見したことにより、すぐに吉田に行って詳細を報告し、実子千々代を人質として提出した。忠節にぬきんでた上、先の非を投げ打ち、前々のように土地を給与する。いよいよ忠信を専らにするように。

同名彦九郎自去年春逆心事、沙汰之限也、雖然定勝事、無二存忠節、彦九郎遂成敗段神妙也、為其賞日近郷之事、永充行之了、彼者本知行分野山・河原・寺社領并買得地等、一円為不入所々領掌候也、棟別之事、永令免許之、百姓以下他之被官仁罷出事、令停止之、可為定勝計也、久兵衛尉事、内々可加成敗之処、令欠落之条、不及是非、縦至于後年対此方抽忠節、日近郷之事、成競望雖企訴訟、一切不可許容、定勝本知行之事、是又永不可有相違、親類奥平与七郎及両度致逆心上者、彼諸職之事、為作手領割分之内条、可為定勝計者也、仍如件、

弘治参年

六月廿六日

治部大輔判

奥平監物入道殿

→愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書)

 同姓彦九郎が去年春より逆心したことは沙汰の限りである。とはいえ定勝は無二の忠節を持っていることは存じており、彦九郎を成敗したことは神妙である。その賞与に日近郷として末永く給与する。あの者の本知行分の野山・河原・寺社領並びに買得地などは一円を不入として各地掌握して下さい。棟別銭のことは末永く免除します。百姓以下が他の被官となって出た場合はこれを罷免し、定勝だけがなすこと。久兵衛尉のこと、内々に成敗を加えるべきところ、逃亡したとのことで致し方ない。たとえ後年に味方となって忠節にぬきんでたとしても、日近郷のことは競合しようと訴訟を企てることは一切許容しない。定勝の本知行のこと、こちらもまた末永く相違がないように。親類の奥平与七郎が2度の逆心に及んだ上は、彼の諸職のこと、作手内の割当領地については定勝だけがなすこと。

去戌三冬、三州津具於白鳥山令忠節候、先判有之候、其後武節之城相籠之刻走廻リ、依之、設楽郡於田口村ニ、徳分拾五貫文可進処務候、縦地頭設楽三郎雖企訴訟、一切不可許容候、向後於令忠節者、可加扶処者也、

永禄五年三月

氏真判

渡部平内次殿

→静岡県史 資料編7「今川氏真判物写」(今橋物語)

 去る戌年の冬、三河国津具の白鳥山において忠節を行ないました。先の判形に記述があります。その後武節の城に立て篭もった時に奔走し、これにより、設楽郡の田口村において給付分15貫文の収入を進呈するでしょう。たとえ地頭の設楽三郎が訴訟を企てたとしても、一切許容することはありません。今後も忠節であるならば、扶助を加えるでしょう。

『去戌三冬』を、「去る戌年の三月である冬」と読むと、戌年はこの判物が発行された1562(永禄5)年3月となり、「去る」という表現がおかしくなる。先の判形という表現があることから、庚戌の1550(天文19)年冬(三冬は冬の美称・もしくは12月か)のことと比定する。

就源五郎方帰国、各進退之儀、雖有訴訟、永不可還附、殊於松井者、当家奉公之筋目、 定光寺殿判形明鏡也、遠江国入国以来、父山城入道粉骨之条、直加扶助之段、為各別之間、不可及異論、然上者、知行・代官所并同心以下、是又不可有相違之儀、多芸与三郎・松井彦三郎・同惣兵衛・三輪四人衆・常葉又六・瀬上代官等、同心等之事、可為同前、弥可抽勲功之状如件、

天文九庚子年八月廿五日

治部大輔(花押)

松井兵庫助殿

→静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

 源五郎方の帰国について。それぞれの進退のこと、訴訟があるとはいえ、いつになろうと還付してはならない。特に松井は、当家への奉公が定光寺殿(今川範国)の判形で明確である。遠江国への入国以来父である山城入道が粉骨したので、直接扶助を加えたのは格別の行ないがあったからで、異論を挟んではならない。ということで、知行・代官所、ならびに同心以下は、こちらも相違があってはならない。多芸与三郎・松井彦三郎・松井惣兵衛・三輪四人衆・常葉又六・瀬上代官などと、同心たちのことも同じようになすこと。ますます勲功にぬきんでるように。