去戌三冬、三州津具於白鳥山令忠節候、先判有之候、其後武節之城相籠之刻走廻リ、依之、設楽郡於田口村ニ、徳分拾五貫文可進処務候、縦地頭設楽三郎雖企訴訟、一切不可許容候、向後於令忠節者、可加扶処者也、
永禄五年三月
氏真判
渡部平内次殿
→静岡県史 資料編7「今川氏真判物写」(今橋物語)
去る戌年の冬、三河国津具の白鳥山において忠節を行ないました。先の判形に記述があります。その後武節の城に立て篭もった時に奔走し、これにより、設楽郡の田口村において給付分15貫文の収入を進呈するでしょう。たとえ地頭の設楽三郎が訴訟を企てたとしても、一切許容することはありません。今後も忠節であるならば、扶助を加えるでしょう。
『去戌三冬』を、「去る戌年の三月である冬」と読むと、戌年はこの判物が発行された1562(永禄5)年3月となり、「去る」という表現がおかしくなる。先の判形という表現があることから、庚戌の1550(天文19)年冬(三冬は冬の美称・もしくは12月か)のことと比定する。