上杉景勝、遠山丹波守に沼田在城を承認して信濃八幡に知行を与える
沼田在城尤ニ候、并信州八幡松田一跡、但百卅貫文除、其外知行・同心共ニ出置者也、仍如件、 天正十年 六月廿九日 景勝(朱印[摩利支天月天子勝軍地蔵) 遠山丹波守殿 →上越市史2433「上杉景勝朱印状」(上杉博物館所蔵文書) …
沼田在城尤ニ候、并信州八幡松田一跡、但百卅貫文除、其外知行・同心共ニ出置者也、仍如件、 天正十年 六月廿九日 景勝(朱印[摩利支天月天子勝軍地蔵) 遠山丹波守殿 →上越市史2433「上杉景勝朱印状」(上杉博物館所蔵文書) …
『敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏』(黒田基樹著・吉川弘文館2013)に、興味深い記述があった。 さらに名胡桃の地については、先の割譲の際に、百姓屋敷のみとなっていたはずであり、城郭は存在しなくなっていたこと【同書1 …
前々其方就若気、逆心雖仕候、今度味方候上者、吉衛門尉忠節之為候間、約束之分不可有無沙汰、然者大墳之郷一円ニ浦山役所并屋敷共、可為罷成出置候上者、永相違有間敷候、殊長沢為親類之間、同名士へ有同心、陣番可仕、次藤次郎・同藤八 …
岩瀬雅楽助兵粮、今度忩劇之刻、鵜津山城へ籠置分、朝比奈孫六郎へ相断請取之、雅楽助ニ可相渡之者也、仍如件、 永禄七年 二月廿六日 氏真判 太原肥前守殿 →戦国遺文 今川氏編1965「今川氏真判物写」(東京大学史料編纂所架 …
武田信虎追放の原因について、約束手形不履行を家臣たちが糾弾したからではないかと検討してみた。これは今川義元にも当てはまるかも知れない。 義元は、自身の家督継承時から後北条氏に奪われたままだった河東郡の奪還を企図していた。 …
去三日不慮之一戦、手之人数無比類走舞、得勝利、同心彼官手負、其外走廻候人数書立一覧、重可遣感状、然者、向後聊爾之行、堅可令停止之候、於違背之輩者、可成下知候、恐々謹言、 正月六日 氏真判 朝比奈兵衛大夫殿 →戦国遺文 …
今度於引間郷飯田合戦之時、敵襲来之処ニ、抽軍中入馬代崩敵、殊小山六郎兵へ切伏之由、雖不始于今、太以感状也、弥可励軍功之状如件、 永禄六年 閏十二月十六日 上総介 判 朝比奈右兵衛大夫殿 →戦国遺文 今川氏編1953「今 …
武田信虎の国外追放の要因を考えてみたが、拡張が止まった途端に不満が噴出するという事情の裏側には、知行の分配を巡る矛盾がひそんでいたと結論付けることが可能だと思う。同時代史料の『塩山向岳禅庵小年代記』にある「信虎平生悪逆無 …
去年西郡払退候段為忠節之条、任訴訟之旨、御油并みとの郷、同陣夫四人永扶助畢、猶西三河本意之上、一所可扶助、守此旨、弥可励忠功之状如件、 永禄六発亥 十二月廿六日 上総介(花押影) 戸田弥三殿 →戦国遺文 今川氏編195 …
今度於飯田合戦之時、粉骨殊被切疵五ケ所之由、所無比類也、弥可励軍功之状如件、 永禄六年 十二月廿日 上総介(花押) 小笠原与左衛門尉殿 →戦国遺文 今川氏編1948「今川氏真感状」(小笠原文書) この度飯田での合戦の …