『敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏』(黒田基樹著・吉川弘文館2013)に、興味深い記述があった。
さらに名胡桃の地については、先の割譲の際に、百姓屋敷のみとなっていたはずであり、城郭は存在しなくなっていたこと【同書134ページ】
これは、北条氏直条書写にある、
ナクルミノ至時、百姓屋敷淵底、以前御下向之砌、可有御見分歟事
を指す。この解釈について考えてみたい。「淵底」については、他の文書の実例を見ても「底の奥深くまで」という解釈で問題はないと考える。敷衍して、「心の奥まで」とか「実情の細かいところまで」という意味にもなる。つまり、「百姓屋敷淵底」とは、「百姓の屋敷に至るまで隅々」で問題はないだろう。この条書で北条氏直は羽柴秀吉に向かって釈明しているので、「名胡桃のあのとき、(武家だけでなく)百姓の屋敷まで詳細に(視察団が)以前ご下向の際に、見極められたのでしょうに」となる。
だから「百姓屋敷のみになっていた」という解釈は当たらないと思う。
また、ここで黒田氏の指摘通りに城がなかった(恐らく破却されていた)と考えると、同文書の前段にある、
被城主中山書付、進之候、
が判らなくなる。城主の中山だが、「被」とつくことから「城主とされる中山」であって、任命したのは後北条氏ではないと解釈できる。だが、後北条氏は後にこの中山のために伝馬を4疋徴用しているから、名胡桃城が後北条方となった以降、中山自身は後北条方に抑留されていたのだろう。
同書では上掲文に続けて、
この北条方の弁明はその後、秀吉からは全く根拠のないものとして否定される。恐らく事実はその通りであったと考えられる。
とつなげているが、ここも疑問に思う。事実を捏造するなら本拠地小田原で証拠を作っていけばよいことである。中山のための伝馬手形をわざわざ作ったところで、秀吉方にアピールできる訳でもない。私には、「中山書付」を氏直が本気で信じていたように見える。
やはり、名胡桃城は温存されていたのだろう。そして沼田にいた猪俣邦憲は『城主』と名乗る中山某から「秀吉裁定で真田方となった岩櫃・名胡桃は上杉景勝に与えられた。越後から接収に向かっているが、この際後北条方につきたい」との連絡を受けたのではないか。邦憲は急遽動員をかけるとともに氏直に急報し、すぐに承諾を得て名胡桃に入ったものと想定している。であるならば、生き証人の中山らを小田原に抑留し、その後必要がなくなったところで沼田に送っているのも合点がいく。
文書内で「信州川中嶋ト知行替之由候間」とあるのは虚報で、事実は、名胡桃・岩櫃はそのまま、沼田領の替地として南信濃の伊那が徳川家康から真田昌幸に宛て行なわれている。あくまで秀吉の裁定通り昌幸は家康の与力となっている。しかし裁定前の昌幸は景勝与力だったのだから、上方で異変があって名胡桃が景勝直轄になる可能性も全くない訳ではなかった。裁定が反故になったと考えた氏直が名胡桃接収を指示するのは自然な流れといえるだろう。
ちなみに、後の通説では名胡桃城主は鈴木主水となっているが、これは架空の人物だと考えている。その後の真田氏家臣に鈴木氏はいない。名胡桃問題で考察したように、本件を巡って徳川家康の元に派遣された鈴木(伊賀守?)は氏政・氏規の家臣であるが、通説はその名を使ったのだと推測している。
また、同時代史料で確認はできていないが、通説では沼田開城後に、名胡桃奪取を問責され処刑されたとされる猪俣邦憲は、氏邦とともに前田家に再仕官したようだ。旧名である富永助盛として存在したようで、弟の勘解由左衛門の名は大野庄用水にちなんで出てくる。
改めて思うが、名胡桃問題については通説を徹底的に検証して臨むべきだろう。