武田晴信、某に、小田原への加勢状況を伝え情報を求める
加藤丹後守由井へ相移候之処、自由井無用之由候哉、就之可被任其意候、仍如令附与大蔵丞口上候、跡部二郎衛門尉小田原ヘ相移之上者、上口へ可出馬之旨申越候、雖然葛山方之覚悟、不聞届候間、下口へ可進陣候、猶御厨辺之義、先日以跡次如 …
加藤丹後守由井へ相移候之処、自由井無用之由候哉、就之可被任其意候、仍如令附与大蔵丞口上候、跡部二郎衛門尉小田原ヘ相移之上者、上口へ可出馬之旨申越候、雖然葛山方之覚悟、不聞届候間、下口へ可進陣候、猶御厨辺之義、先日以跡次如 …
去五月十二日、於三州御油口片坂不慮之一戦刻、先勢被押立之処、正俊於旗本、以一身覚悟遂一戦之上、敵令敗軍、然処随分者討捕、手負数多仕出之条、甚以粉骨無比類、因茲知行於三州境目参万疋、但此内於下方代官所畠銭之内万疋、永扶助訖 …
北条氏政、酒井伯耆守に、榎本参陣を褒め防戦を指示するの中で 今度当表隙入ニ付而、榎本ニ以三百之人数在陣可走廻由 という表現がある。「隙入」を当初「すきいる」=「隙を狙って入り込む」のように漠然と解釈していたが、以下の語義 …
去二月十八日夜、市野取出江乗入端城押破時、被官村田小伝次頸一討捕之畢、太以無比類、弥可走廻之段可申付状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1977「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) …
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官森下吉内走廻、於鑓下弓仕之由神妙也、弥可抽戦忠之由申付之状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1976「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) …
かなり衝撃的な記述が『戦国史研究』の最新号にあった。 写の字形をみると、三月の「三」の字が「六」に近い形に見える。おそらく「三月」はくずし字の形が類似する「六月」の誤写であろう。 戦国史研究第65号『御館の乱に関わる新出 …
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官神村喜六於鑓下鉄炮相放之段神妙也、弥可抽軍功之状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1974「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) 去る24日 …
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官小左近鉄炮相放走廻之段神妙也、弥可抽戦功之由可申付者也、仍如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1973「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) …
奥三河現地の情報を参考にさせていただいている『長篠落ち武者日記』で、菅沼定勝・定能・貞友の関係性を考究した記事が上げられていた(謎の文書 奥平貞勝と貞能親子の微妙な関係?)。筆者のうらにわさんは、1547(天文16)年の …
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、相拘置牢人岩間和泉、蒙鑓疵三ヶ所走舞、遂討死之条感悦之至也、弥跡職於有之者、此旨可申聞者也、仍如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1971「今川氏真 …