今川氏真、鈴木源六が越後と相模の連絡をした功を賞し知行を与える

今度就錯乱、自最前当城為音信相越、殊山中方々走舞令忠節之条、甚以怡悦之至也、為其賞久野脇郷、為新知行所出置也、若雖有競望之輩、今度依忠節宛行上者、一切不可許容、守此旨、弥可抽奉公者也、依如件、 永禄十二[己巳]年 三月廿 今川氏真、鈴木源六が越後と相模の連絡をした功を賞し知行を与える

仕切り直し 新出史料

『戦国遺文 今川氏編』の完結で、鳴海原合戦関係の史料は網羅できたと考えていたのだが……そういう矢先に新展開があった。 コメント欄にお邪魔したことのあるブログ『国家鮟鱇』さんでYOMIURI ONLINEの記事「信長の父「 仕切り直し 新出史料

北条氏政、多田新十郎が薩埵山で敵夜襲を撃退したことを賞す

昨十三夜、於薩埵山、敵夜懸之刻、敵壱人針宇文六与合討、高名感悦候、弥可竭粉骨者也、仍如件、 永禄十二年[己巳] 三月十四日  (北条氏政花押) 多田新十郎とのへ →戦国遺文 今川氏編2311「北条氏政感状」(多田文書) 北条氏政、多田新十郎が薩埵山で敵夜襲を撃退したことを賞す

検証a35:厳島合戦の実態

戦国時代の合戦で『桶狭間』と並んで著名なのが『厳島』だ。どちらも通説では共通点がある。 ■敗者は数箇国を領し圧倒的に兵数で有利だとされている ■有利な兵数による驕りと悪天候が敗因になっている ■勝者側に感状が残っていない 検証a35:厳島合戦の実態

北条氏政、井出甚助が上野筋で敵2名を討ち取ったことを賞す

正月以来度々竭粉骨、去二日於上野筋敵二人討捕候、高名之至感悦候、氏真御本意之上申立可加忠賞者也、仍如件、 永禄十二年[己巳] 三月八日  氏政(花押) 井出甚助殿 →戦国遺文 今川氏編2308「北条氏政感状」(井出文書) 北条氏政、井出甚助が上野筋で敵2名を討ち取ったことを賞す

検証a34:大将の戦死例

鳴海原合戦での最大の謎は、総大将義元の敗死にあるだろう。類似例がないか、その他同時代で発生した『総大将』の戦死例を見てみよう。下記は厳密な史料に基づいたものではなく、通説やWikipediaなども参考にしているのでご諒解 検証a34:大将の戦死例

今川氏真、潜井善右衛門に、西郷・天王での活躍を賞す

去年十二月廿八日午刻、於西郷之構押入鑓走廻、剰去正月廿八日午刻、於懸河天王社路、最前合鑓菅沼美濃お衝伏、其上令刀切蒙鑓手二ケ所之段、粉骨之至也、本意之上、可加扶助之条、守此旨、弥可抽軍忠者也、仍如件、 永禄十二己巳 二月 今川氏真、潜井善右衛門に、西郷・天王での活躍を賞す