北条氏政、岡部和泉守に、掛川での情報収集を依頼する
懸川此時ニ候、早々被相移彼国之模様聞届、如何様ニも早々可被成候、其方之一左右聞届可令出勢候、恐々謹言、 卯月廿八日 氏政判 岡部和泉守殿 →戦国遺文 今川氏編2358「北条氏政書状写」(国立公文書館所蔵土佐国蠧簡集残編 …
懸川此時ニ候、早々被相移彼国之模様聞届、如何様ニも早々可被成候、其方之一左右聞届可令出勢候、恐々謹言、 卯月廿八日 氏政判 岡部和泉守殿 →戦国遺文 今川氏編2358「北条氏政書状写」(国立公文書館所蔵土佐国蠧簡集残編 …
今度就錯乱、自最前当城為音信相越、殊山中方々走舞令忠節之条、甚以怡悦之至也、為其賞久野脇郷、為新知行所出置也、若雖有競望之輩、今度依忠節宛行上者、一切不可許容、守此旨、弥可抽奉公者也、依如件、 永禄十二[己巳]年 三月廿 …
正月十八日於遊野地、敵壱人討捕由、誠高名之至候、氏真御本意之上、御感候様ニ可申立候、仍如件、 永禄十二年[己巳] 三月廿三日 氏政(花押) 鈴木助一殿 [包紙ウハ書]「鈴木助一殿」 →戦国遺文 今川氏編2321「北条氏 …
『戦国遺文 今川氏編』の完結で、鳴海原合戦関係の史料は網羅できたと考えていたのだが……そういう矢先に新展開があった。 コメント欄にお邪魔したことのあるブログ『国家鮟鱇』さんでYOMIURI ONLINEの記事「信長の父「 …
昨十三夜、於薩埵山、敵夜懸之刻、敵壱人針宇文六与合討、高名感悦候、弥可竭粉骨者也、仍如件、 永禄十二年[己巳] 三月十四日 (北条氏政花押) 多田新十郎とのへ →戦国遺文 今川氏編2311「北条氏政感状」(多田文書) …
戦国時代の合戦で『桶狭間』と並んで著名なのが『厳島』だ。どちらも通説では共通点がある。 ■敗者は数箇国を領し圧倒的に兵数で有利だとされている ■有利な兵数による驕りと悪天候が敗因になっている ■勝者側に感状が残っていない …
正月以来度々竭粉骨、去二日於上野筋敵二人討捕候、高名之至感悦候、氏真御本意之上申立可加忠賞者也、仍如件、 永禄十二年[己巳] 三月八日 氏政(花押) 井出甚助殿 →戦国遺文 今川氏編2308「北条氏政感状」(井出文書) …
今廿八日、於薩埵山敵置伏兵、玉縄衆尺木剪追上候処、其方抽而被走廻、追崩、敵数多討捕候、誠高名之至感悦候、弥可竭粉骨状如件、 永禄十二年[己巳] 二月廿八日 氏政判 間宮彦次郎殿 →戦国遺文 今川氏編2295「北条氏政感 …
鳴海原合戦での最大の謎は、総大将義元の敗死にあるだろう。類似例がないか、その他同時代で発生した『総大将』の戦死例を見てみよう。下記は厳密な史料に基づいたものではなく、通説やWikipediaなども参考にしているのでご諒解 …
去年十二月廿八日午刻、於西郷之構押入鑓走廻、剰去正月廿八日午刻、於懸河天王社路、最前合鑓菅沼美濃お衝伏、其上令刀切蒙鑓手二ケ所之段、粉骨之至也、本意之上、可加扶助之条、守此旨、弥可抽軍忠者也、仍如件、 永禄十二己巳 二月 …