鳴海原合戦での最大の謎は、総大将義元の敗死にあるだろう。類似例がないか、その他同時代で発生した『総大将』の戦死例を見てみよう。下記は厳密な史料に基づいたものではなく、通説やWikipediaなども参考にしているのでご諒解いただきたい。

発生年月 敗死者 場所 享年 戦闘規模
1476(文明8)年2月 今川義忠 塩買坂 41歳
1494(明応3)年10月5日 扇谷定正 荒川渡河 49歳
1510(永正7)年6月 山内顕定 長森原 57歳
1517(永正14)年2月 武田元繁 有田中井出 不明
1546(天文15)年 扇谷朝定 川越? 22歳?
1549(天文18)年9月 宇都宮尚綱 五月女坂 37歳
1555(天文24)年10月 陶晴賢 厳島 35歳
1560(永禄3)年5月 今川義元 鳴海原 42歳
1584(天正12)年3月 竜造寺隆信 沖田畷 55歳
1586(天正14)年? 佐野宗綱 下彦間寄居 27歳

この中では、義元の祖父義忠の戦死状況が参考になるだろう。今川家という構成も同じなら、地理的にも近い。時期として近いのは厳島・沖田畷になる。

遠く長森原に遠征し、2年の激闘に敗れて死去した上杉顕定も状況が近いように思う。勢いでは押しながら、最後に追い込まれて全滅している。

後継政務者である氏真を駿河に残した義元と、実務補佐担当の憲房(養子ではない)を越後に同道した顕定では方針が異なる。顕定は南部戦線にも火種を抱えていたにも関わらず、実家である越後を優先したのだろう。

局地的劣勢を挽回する意味で前線に飛び込んで敗死、というのが一つのパターンなのかも知れない。扇谷上杉の2人、定正・朝定は不明な点があるので例外だとして、竜造寺隆信の戦死状況が判れば推論を進められそうだ。

もう少し踏み込んでみると、今川義忠が掛川荘を巡って政治的に苦戦した果てに奇襲で敗死したのを初めとして、政治要件を優先させて戦術を軽視・もしくは度外視した結果、というのが一つ原則になるかも知れない。これらの例を参考にしつつ、義元の政治要件、そしてそれを優先した結果のリスク規模を考えていきたい。

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2 comments untill now

  1. ご無沙汰しております。
    総大将の戦死例を探るというのも、ありそうでなかった興味深い視点ですね。国府台合戦と小弓御所・足利義明もここに含むことができそうです。
    いずれにせよ、戦死したのは寧ろ攻勢をかけた側の総大将という点が共通しているわけですが、ひとつの考え方として、攻め込まれた側・明らかに負けている側は速やかに戦場から離脱し、再挙を図るなり自決するなりが当時の大将のあるべき姿だったのかもしれません。朝倉義景や武田勝頼、明智光秀なども然り。一方、討ち取られた大将たちは元々死ぬつもりなど全くなく、戦況も有利だったのに最後の最後で引っくり返された、という印象です。交通事故に遭ったようなもので。
    実際、討ち取られた武将たちは油断していただとか猪武者だとか言われてしまい、死後も気の毒な評判を立てられることが多いような気がします。「戦場で斃れる」というのは、実は武士にとっては不名誉な最期だったのでしょうか。

    久々のコメントで長文すみません。これからも考察楽しみにしております。

  2. コメントありがとうございます。

    ご指摘通り、足利義明もそうですね。見逃していました。義明の場合は、里見義尭との関係性が微妙ですから、参考例として興味深いです。扇谷定正と伊勢宗瑞の間合いに近いかも知れません。時間があったら考えてみたいです。ご示唆に感謝します。

    近世の武将評価は、彼らの時代の勝ち組(家を継続させた諸大名)が高評価で、途中で脱落した大名を貶す傾向がありますね。織田信雄・今川氏真・武田勝頼・北条氏政への評価を見ると、家を失った点で非難されているのではないかと。それは、合戦のない近世ならではの視点かも知れないとふと思いました。

    ちなみに、今川義元は「田楽窪で自刎した」という史料もあるので、鳴海原の戦場を離脱しようとして逃げ切れず自殺した可能性もあります。

    長文コメントは大歓迎です。これからも宜しくお願いします。