戦国時代の合戦で『桶狭間』と並んで著名なのが『厳島』だ。どちらも通説では共通点がある。

■敗者は数箇国を領し圧倒的に兵数で有利だとされている
■有利な兵数による驕りと悪天候が敗因になっている
■勝者側に感状が残っていない

ところが、厳島合戦を調べた史家の中には上記が当てはまらないとしている方がいた。

再考 厳島合戦「中国新聞連載記事」秋山伸隆・著

この記事によると、陶方は兵数として劣っており、弘中隆兼は妻に遺書めいた書状を渡して戦場に赴いていたという。つまり、陶晴賢は劣勢を挽回すべく決死の戦いを挑み、衆寡敵せず戦死したのだろうと推測されている。

早速、記事中で取り上げられている史料の一つを入手できたのでアップしてみよう。

 サル間ニ陶禅門ハ名ヲ全薑ト付ケ、九月廿一日当島ヘ押シ上リ、宮崎ヲ大将ノ陣トシ、弘中三河守ハ古城ヲ下リテ陣ヲ取ラル、ソノ外ノ防州衆ハ思ヒ思ヒニ陣ヲ取ル、

カゝル処ニ吉田ヨリハ、廿三日地御前ニ出張ス、国衆ハ各々聞キ懸カリニ陸路ヲ、沖西ノ火立石マデ出ラレケル、船数ナケレバ、興家ニ使者ヲヨセラル、折節、土州表ヘヨルベシトテ乗船ノ砌ナレバ、先ヅ安芸ノ内ヘ合力スベシトテ、船数ニ三百艘ニテ下ラル、
サレバ、当島ノ城、心モトナシトテ、熊谷信直ハ廿六日、船数五六十艘ニテ當城ヘ入リ給フ、城ノ気負ヒ是非ニ及バズ、

然ル間、廿八日ニハ、興家ノ警固二三百艘下ル間、明ル廿九日ノ暮ニカゝリ、元就乗船アリテ、包ノ浦ヘ船ヲ付ケテ、バクチ尾ヘ上リ給フ、興家ソノ外ノ国衆ナドハ、博奕尾ニ大将ノ陣ニ鬨ノ声ノ上リシ後、ヲシ上ル、陶、弘中ハ一矢モ射ズ、西山ヲサシテ引キ退ル、小早川隆景ハ追ヒ懸ケ給ヒテ、西山ノ峠ニテ、陶ノ内ノ三浦ニ懸ケ合ヒ戦ヒ行ク、隆景ノ内ノ南ノ某、山縣勘次郎ソノ外五六人討タル、小早川殿ハ安穏ナリ、三浦越中ハ一所ノ者二十人バカリ、隆景ヘ打チ取ラレ給フ、陶全薑ハソレヨリ下リ、大江ト云フ処ニテ腹ヲ切ラセ申ス、宮川市允カイシヤクス、ソノキハマデハ五六人アリシナリ、

爰ニ、陶ノ内、柿並佐渡入道ハ、我ガ頭ヲ取リ、全薑ノ頭トシテ持チ出スベシト申セバ、脇弥左衛門尉ト云フ新里ノ内ノ者、首ヲセンノ包ミニ入レ、児玉周防守ニサゝグレバ、首ヲモ請ケ取リ、弥左衛門尉ヲモ討チケル、

「棚守房顕覚書」厳島合戦の項目

筆者の房顕は宮島の神主。1494(明応3)年生まれで、1555(天文24)年の合戦時には既に還暦を迎えていた。本書の成立は天正年間になってからというが、当時の目撃者の証言として見てよいと思う。

実際に戦闘したのは小早川隆景の手勢で、博奕尾から鬨の声を挙げて下山する。陶と弘中は全く応戦せずに退却を開始し、西山の峠で三浦・山縣がようやく戦闘に及ぶが討ち取られ、晴賢はそこから下った大江という場所で切腹する。この時周囲には5~6名しかいなかったという。この記述の後に弘中隆兼が200~300名で『龍ケ窟』に数日立て籠もる描写があるので、陶本陣はそれより多い500名前後が当初陣しており、敵の突撃によって四散したかと思われる。

これらの記述から考えると、確かに陶方は少数で戦闘に及んだという説は説得力がある。当主自らが危険な前線に立たなければならない程兵数に逼迫しており、そこを衝かれたのだろう。

負傷して退却した朝比奈親徳、護衛隊として全滅した松井宗信のことを考えると、鳴海原での合戦もこれに近似していたのかも知れない。

ちなみに、陶晴賢が名乗った「全薑」はショウガのことで、植物名はかなり珍しい。彼が何を思ってつけたかは判らない。

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