『信長公記』の信憑性検証 その3
2回に分けて『信長公記』で信憑性に疑念のある点を検証したが、物語として破綻していることは確実となった。筆者は何故このような破綻を招いてしまったのだろうか。 ここから先は推測である。但し、本叙述が史実を忠実に描写したと …
2回に分けて『信長公記』で信憑性に疑念のある点を検証したが、物語として破綻していることは確実となった。筆者は何故このような破綻を招いてしまったのだろうか。 ここから先は推測である。但し、本叙述が史実を忠実に描写したと …
前回までに挙げた要因を素直に受け取り、合戦までのあらましを再構築してみる。 圧倒的に優勢な兵力を使って、義元は尾張国沓掛に進んだ。対する信長は清須から動かず、前線部将から攻撃予測が来ても作戦会議を行なわなかった。この …
『信長公記』首巻「今川義元討死の事」は2段で構成される。第1段はいわゆる『桶狭間合戦』の叙述、第2段は因果説明(山口左馬助を誅殺した義元が左馬助の元所領で敗死したという点)と合戦後日譚である。 このうち、第1段(以下 …
一、家康は、岡崎の城へ楯籠り、御居城なり。 一、翌年四月上旬、三州梅ヶ坪の城へ御手遣り推し詰め、麦苗薙ぎせられ、然して、究竟の射手ども罷り出で、きびしく相支へ、足軽合戦にて、前野長兵衛討死侯。爰にて平井久右衛門よき矢 …
天文廿一年壬子五月十七日 一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かた …
一、鳴海の城、南は黒末の川とて、入海塩の差し引き、城下までこれあり。東へ谷合打ち続き、西又深田なり。北より東へは山つゞきなり。城より廿町隔て、たんげと云ふ古屋しきこれあるを御取出にかまへられ、 水野帯刀 山口ゑびの丞 …
刈谷城を今川義元が『赦免』した件について、『赦免』とはどのような状況を指すのか、収集した書状を元に考察を行なってみる。 今川氏文書で該当するものは以下の通り。 01 今川義元、足立右馬助が岡崎赦免に奔走した功績を褒める …
今川氏から見た桶狭間に関しては、ほぼ史料を網羅できたと自負している。但し、1559(永禄2)年以前の三河・尾張の状況に関しては、2009年6月刊行予定の愛知県史資料編10を待つよりない。この史料の入手によって、松平・織 …
1492(明応元)年 北条御所御遷化 北条御所(堀越公方足利政知)が死去。 1493(明応2)年 駿河国より伊豆へ打入也。 駿河国から伊豆国へ出撃した。 1494(明応3)年 三月十六日合戦ニハ。武田彦八郎殿負玉フ。大 …
同七年戊午八月伊豆ノ御所腹切玉ヘリ。伊勢早雲御敵ニテ。 →戦国史研究27号『堀越公方滅亡の再検討』家永遵嗣 1498(明応7)戊午年8月、伊豆の御所(足利茶々丸)が切腹された。伊勢早雲(宗瑞)と敵対されて。