一、家康は、岡崎の城へ楯籠り、御居城なり。

 一、翌年四月上旬、三州梅ヶ坪の城へ御手遣り推し詰め、麦苗薙ぎせられ、然して、究竟の射手ども罷り出で、きびしく相支へ、足軽合戦にて、前野長兵衛討死侯。爰にて平井久右衛門よき矢を仕り、城中より褒美いたし、矢を送り、信長も御感なされ、豹の皮の大うつぼ、蘆毛の御馬下され、面目の至りなり。野陣を懸けさせられ、是れより高橋郡一御働き、端ゝゝ放火し、推し詰め、麦苗薙ぎせられ、爰にても矢軍あり、加治屋村焼き払ひ、野陣を懸けられ、翌日、いぼの城、是れ叉、御手遣はし、麦苗薙ぎせられ、直ちに矢久佐の城へ御手遣はし、麦苗薙ぎせられ、御帰陣。

 一、上総介殿信長公の御舎弟勘十郎殿、龍泉寺を城に御拵へなされ侯。上郡岩倉の織田伊勢守と仰せ合はせられ、信長の御台所入り篠木三郷、能き知行にて侯。是れを押領侯はんとの御巧みにて侯。勘十郎殿御若衆に津々木蔵人とてこれあり。御家中の覚えの侍どもは皆、津々木に付けられ候。勝ちに乗って奢り、柴田権六を蔑如に持ち扱ひ候。柴田無念に存じ、上総介殿へ又御謀叛おぼしめし立つるの由申し上げられ候。是れより信長作病を御構へにて、一切面へ御出でなし。御兄弟の儀に侯間、勘十郎殿御見舞然るべしと、御袋様並びに柴田権六異見申すに付いて、清洲へ御見舞に御出で、清洲北矢蔵、天主、次の間にて、

 弘治四年戊午霜月二日

河尻・青貝に仰せ付けられ、御生害なされ侯。此の忠節仕り侯に付て、後に越前大国を柴田に仰せ付けられ侯。

→改訂信長公記 「家康公岡崎の御城へ御引取りの事」(首巻)

一、家康は岡崎城へ立てこもり、居城とした。

一、翌年4月上旬、三河国梅ヶ坪の城に軍を派遣し、麦苗をなぎ倒したところ、、屈強の射手が出撃して厳重に防衛した。足軽合戦となり、前野長兵衛が討ち死にした。平井久右衛門が上手な射撃を行ない、城内から褒美として矢を送った。信長も喜んで、豹の皮の大うつぼと蘆毛の馬を下賜された。名誉の至りである。野外に陣をおいて、ここから高橋郡で軍事展開し、すみずみまで放火して派遣し、麦苗をなぎ倒した。ここでも矢の応酬があり、加治屋村を焼き払った。再び野外に陣をすえて、翌日は伊保城に軍を派遣、麦苗をなぎ倒し、すぐに八草城へも派遣して麦苗をなぎ倒し、帰陣なさった。

一、上総介殿(信長公)の弟である勘十郎殿は、龍泉寺を城に仕立て上げられた。尾張国上郡岩倉の織田伊勢守と申し合わせて、信長の御台所の収入となる篠木三郷はよい知行だったので、これを差し押さえてしまおうという計画だった。勘十郎殿の若衆に津々木蔵人がいた。家中の主だった侍たちは皆津々木の配下となったところ、彼は勝ちに乗って奢り、柴田権六をないがしろに扱っていた。柴田は無念に思い、上総介殿に「(勘十郎が)再び謀叛をお考えのようだ」と申し上げた。そこで信長は仮病を使い表には一切出ないようにした。兄弟だから見舞に行くべきだと御袋様と柴田権六が意見し、勘十郎殿は清洲に見舞に行った。そして清洲北矢蔵の天主、次の間にて、

 弘治四年戊午霜月二日

 河尻と青貝に指示して、殺害なされた。この忠節によって、のちに越前という大国を柴田に預けられた。

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