『信長公記』首巻「今川義元討死の事」は2段で構成される。第1段はいわゆる『桶狭間合戦』の叙述、第2段は因果説明(山口左馬助を誅殺した義元が左馬助の元所領で敗死したという点)と合戦後日譚である。
 このうち、第1段(以下「本叙述」と記載)は論理的・物理的に破綻した構成になっている。他の史料との比較は行なわず、まずこの文章がその物語空間においてどのように破綻しているかを摘出し、何故破綻したかの推測を行なってみる。
 文章の前半は、織田信長の誤った判断と不利な状況の説明に費やされている。
a)誤った判断
01)前線情報への非対応と家臣の嘲笑
 18日夕方、佐久間大学・織田玄蕃の部隊から信長に報告が寄せられる。「大高城への兵粮搬入に伴い、織田方の援軍が来ないように潮の干満を考慮し、夜に砦を取り払うように今川方は指示を受けるだろう」とのこと。ところがその夜、織田方の会議で作戦準備は議案に上がらなかった。雑談で時間ばかり過ぎ、深夜だから帰るようにと指示が出た。家老たちは「運が尽きる際は知恵の鏡も曇るというのはこのことだ」と嘲弄して帰った。
02)臨戦態勢構築の遅れ
 19日、予想通り、夜明けに佐久間大学・織田玄蕃の部隊から「早くも鷲津山と丸根山が攻撃された」と報告があった。信長は敦盛の舞を舞った後で武装して食事、出陣した。主従6騎、雑兵200人程度で全速で熱田へ行くと両砦陥落と思しき煙が見えた。更に丹下の砦から佐久間氏が陣を張る善照寺砦へ移り、そこで部隊を編成した。
03)部隊の誤認
 攻撃直前、西に展開した今川方を「あの武者は、昨夕に兵粮を使って、徹夜で行軍、大高へ兵粮を入れた後、鷲津・丸根で手間をかけ、辛労して、疲れた武者だ。こちらは新手である」と誤認。それは義元本隊を含む部隊45,000名で、鷲津・丸根攻略部隊ではなかった。
b)物理的不利
01)兵数
 今川方は45,000人。織田方は2,000人足らず。織田方は佐々隼人正・千秋四郎の300名が別途攻撃をかけるが、50名が戦死する。
02)地勢
 義元は『おけはざま山』という高地で休息。場所は近世の桶狭間村近辺の丘陵上だと考えられる。
 信長は清須から移動した部隊が鳴海の南、中島近辺の低地に布陣。畦道の両側は深田であり、高地にいる敵から行動が丸見えであると、家臣が中島への進撃、中島からの進撃時に制止。
03)天候
 攻撃直前、織田方が山麓に到達した際に東方向より暴風雨。楠の巨木が倒れる程の突風。
c)指示の矛盾
01)首級の打ち捨て指示
 信長は「打拾てになすべし」と指示するが、その直後に前田又左衛門・毛利河内らが首級を持参。また、攻撃成功後は「若者たちが追いつきながら、二つ三つと、手に手に首級をとって御前へ来た。首級はどれも清須で首実検すると仰せであった」という状況となる。信長の指示はその前後にわたって守られていない。
 このように、本叙述筆者自らが織田方のマイナス要因を列記している。個々に検討してみよう。
 a-1,2から、今川方侵攻への対処が遅れていること、対策についても家臣に指示がなく嘲られていることが描かれる。また、抜き打ちに近い形で信長が出陣しており作戦の周知徹底はない。さらにa-3では、対峙する敵部隊の体力を読み違えている。実際にどうだったかはともかく、本叙述においては、大高攻撃部隊と義元本隊は別に描かれている。筆者誤記でない限り、本叙述内の信長は誤認識をしている。
 b-2から、信長が最前線まで進出しており、それを今川方が看取していることが描写されている。今川方は信長本隊を狙うことが可能だった。300人の部隊が突然攻撃をかけたのは、a-1と関係して作戦の立案とその周知ができていなかったことを暗示している。また、b-1では今川方が4.5万人と圧倒的兵力を持っていると記述。さらにb-3では、深田に位置する織田方の背後からすさまじい暴風雨がやってきたと述べている。中島近辺の足場が悪いことは繰り返し描写されており、素直に読むならば風雨によって織田方は身動きとれなくなることは確実である。
 c-1では、織田信長の首級打ち捨て指示と矛盾する、首級獲得の描写が多数あるのが問題である。ただ、この指示が描かれなかったなら矛盾は生じなかったため、この部分だけ、他の叙述から複製したのではないかと思われる。もしそうならば、c-1は織田方不利の根拠とはならない。

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