一、鳴海の城、南は黒末の川とて、入海塩の差し引き、城下までこれあり。東へ谷合打ち続き、西又深田なり。北より東へは山つゞきなり。城より廿町隔て、たんげと云ふ古屋しきこれあるを御取出にかまへられ、

 水野帯刀 山口ゑびの丞 柘植玄蕃頭 真木与十郎 真木宗十郎 伴十左衛門尉

 東に善照寺とて古跡これ在り、御要害に侯て、佐久間右衛門、舎弟左京助をかせられ、南中島とて小村あり。御取出になされ、梶川平左衛門をかせられ、

 一、黒末入海の向ふに、なるみ、大だか、間を取り切り、御取出ニケ所仰せ付けらる。

 一、丸根山には、佐久間大学をかせられ、

 一、鷲津山には、織田玄蕃・飯尾近江守父子入れをかせられ侯ひき。

→改訂信長公記 「鳴海の城へ御取出の事」(首巻)

一、鳴海城は、南側は黒末川があり、潮の干満が城下まである。東には谷があり、西は深田。北から東には山が地続きとなっている。鳴海城から20町(約2.2km)隔てて、丹下という古屋敷があったのでこれを砦として構えられ、(以下の人員を配した)
 水野帯刀 山口ゑびの丞 柘植玄蕃頭 真木与十郎 真木宗十郎 伴十左衛門尉
 東に善照寺という遺跡があり要害の地だったので、佐久間右衛門とその弟、左京助を配した。南に中島という小村があったので砦として梶川平左衛門を置いた。
 一、黒末の湾を挟んだ鳴海と大高の間を遮断する砦を2箇所指示した。
 一、丸根山には佐久間大学を配置し、
 一、鷲津山には織田玄蕃と飯尾近江守父子を入れて置いた。

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