前回までに挙げた要因を素直に受け取り、合戦までのあらましを再構築してみる。
 圧倒的に優勢な兵力を使って、義元は尾張国沓掛に進んだ。対する信長は清須から動かず、前線部将から攻撃予測が来ても作戦会議を行なわなかった。このため、家臣は信長を嘲笑した。
 5月19日未明、前線部将が予想した通り、鷲津・丸根の攻撃が始まる。その報告を受けた信長は、舞を舞った後で自らの武装・食事を行ない、全速で熱田、丹下、善照寺と移動する。側近の者5人と兵200人が従った。
 善照寺に信長が到達した時に、部隊編成が行なわれる。先に展開していた部隊300名が今川方に攻撃を行ない、50名の死者を出して退却。信長は中島に進もうとするが、家臣に「兵数が少ないことが丸見えであり、両側は深田、畦道は一人ずつしか通れない」と制止される。しかしこれを押し切って中島まで進撃。さらに進軍を続けようとするも再度家臣から制止される。信長はこれも押し切って「あの部隊は鷲津・丸根を攻撃して疲れ切っている。こちらは新手だから勝てる。首級は取らずに打ち捨てにせよ」と指示する。
 織田方が山麓に至ると、東から猛烈な風雨が襲う。沓掛峠の巨木が倒れるほどだった。
 この風雨が収まったのち合戦が描写される。ところが、ここまでの叙述を読む限りでは、織田方が壊滅し信長が討ち取られるほうが自然である。理由は以下の通り。
■織田方は2,000人以下であり、45,000人の今川方に比較して圧倒的少数である。
■事前の作戦会議が行なわれず、各部隊の作戦行動が統制できていない。
■鷲津・丸根の砦は陥落し、本隊に先行して攻撃した300人も敗退していた。
■敵対部隊の体力を誤認。
■足場の悪い低湿地上で暴風雨に襲われた。丘陵地に位置する今川方に比べ、隠れる場所もない低地にいる織田方のほうが足場が悪い。
■部隊の配置を今川方に把握されていた。
 ところがこの後の文章では、これだけのマイナス要因を背負い込んだ織田方が快勝し、義元が討ち取られる。あたかも、織田方のマイナスが一瞬にして今川方に転化されているかのように。このため、『桶狭間合戦』と呼ばれる出来事には多くの矛盾が発生し、多数の解釈がなされてきた。
■織田方は2,000人であり、45,000人の今川方に比較して圧倒的少数である。
→今川方は遠征軍であり非戦闘員が過半であった。
→尾張国の石高は高く、実は2,000人より大部隊だった。
→今川方は散開しており義元本隊は少人数だった。
■事前の作戦会議が行なわれず、各部隊の作戦行動が統制できていない。
→信長は情報漏洩を恐れ誰にも作戦を明かさなかった。
→今川方の意表を衝くため単独で急速な移動を行なった。
■鷲津・丸根の砦は陥落し、攻撃した300人も敗退していた。
→両砦陥落・300人の攻撃失敗は織り込み済みで今川本隊誘出の好餌だった。
■敵対部隊の体力を誤認。
→前進に消極的な家臣を意図的に誤導した。
■足場の悪い低湿地上で暴風雨に襲われた。
→既に丘陵地帯に移動済みだった。
→風は今川方にとっての逆風だったので損害は今川方に発生した。
■部隊の配置を今川方に把握されていた。
→低地から攻撃する筈がないだろうとの油断を誘った。
 一つずつ論考すべきであるがそれは他日を期す。総じてまとめるならば、兵数検証以外の解釈は全て「義元が敗死し信長が生き残った」という結果から逆算された結果論に過ぎない。兵数検証にしても近世石高からの敷衍となっており根拠に乏しい。
 多数の試論がありながら決着を見ない背景には「この叙述は史実に近いもの」という思い込みがあるからではないだろうか。これだけ破綻したストーリーが貴重に扱われているのは、『信長公記』で他の叙述が同時代史料と符合する、織田方の同時代史料に1560(永禄3)年5月に関連したものが殆どない(織田方から見た情報は本叙述が唯一となる)という理由が考えられる。ところが、『信長公記』本体と首巻は成立を異にするとの見解もあり、自筆本も見つかっていない(『信長公記を読む』参照)。首巻と本体の信憑性は異なると考えるべきだろう。そもそも、記載年次が8年も異なっており史料としての前提すら成り立たない。
 では、本叙述はどのように成立したのだろうか。次回それを推理してみる。

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