実隆公記 1498(明応7)年、1507(永正4)年記述抜粋
1498(明応7)年 1月19日 向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也 1月24日 東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云 1月19日 …
1498(明応7)年 1月19日 向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也 1月24日 東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云 1月19日 …
先婦養珠院宗栄儀 在中全書法華六十六部未充宝納氏綱 綱前緒取収篭之 金筒追州(修)於旧蹟贈 献 願伏此功早證 仏果及与群生円種(珠) 智 大永戊子七月日 願主敬白 →戦国遺文 後北条氏編「大田八幡宮経筒銘(島根県大田市・ …
論点 ここでの仮説は、史料検討を経ていない。ひとまず記録として残しておく。後北条氏五代の中で生母が判らないのは伊勢宗瑞と北条氏康のみである。後北条前史に埋もれていた伊勢宗瑞の正体は、近年の研究で徐々に明らかになりつつあ …
調査立脚点 家康の祖父清康と父広忠は、ともに家臣に暗殺され、その暗殺者を同じ人物(植村新六郎)がその場で斬り殺している。推理小説的に、これはなにか裏がありそう。しかも、清康を暗殺した阿部弥七郎の父親である阿部大蔵は、そ …
歴史上の矛盾点に関して、史料に基づく検証を抜いて記述してみる。完全な形ではなく、また伝承や通史も参照しつつ道筋だけ探る。このことにより、仮説構築時の指針を打ち出して史料検証の拠点としていこうと考えている。一先ずは、旧サ …
去十二日之一札今十六辰刻披見候、仍二日ニ四郎人衆、其方人数箱根・足柄へ懸急候由、即日被帰候、又大藤八日番替尤ニ候、来ル廿二日ニ人数を被立、廿ニ昼替尤ニ候、従而足柄手蜜ニ付而、其方人衆不足之由無余儀候、小田原程近候間、小幡 …
彦六郎所へ十五日之一札、今十六辰刻披見候、返答も非失念申候、仍去朔日四郎人衆・其方人衆足柄へ懸着候、五日ニ罷帰候、左候ヘハ四日打込ニ候、又大藤一日番替遅先番致之候、合五日当番延候間、来廿一人衆を被立、廿ニ書替尤候、随而足 …
河村御城普請未熟之間、人足四人御雇候、来晦日ニ、右城へ相集、朔日早天より二日迄、両日可致普請、両日之雇賃百六十文、米を以於右城、安藤源左衛門代前より可請取之者也、仍如件、 未 九月廿六日 田名 百姓中 →戦国遺文 後北条 …
感状之知行書立之事、 千八百七拾四貫文 葛山領佐野郷 貮百貫文 ゝ 葛山堀内分 百貫文 ゝ 清五郷 以上貮千百七拾四貫文 此内、 千貫文 先日感状之地、 千七拾四貫文 一騎合百六騎 但、壱人拾貫文積 …
太神宮御祓之箱頂戴、目出度候、仍葛西庄御神領之由承候、至于可為如上代者、其類可多候、宜諸国之次候、伏所冀者、以 神慮、房総可令本意候、此願令成就者、新御神領可令寄進候、委細者、石巻父子可申上也、仍状如件、 二月廿七日 平 …