2回に分けて『信長公記』で信憑性に疑念のある点を検証したが、物語として破綻していることは確実となった。筆者は何故このような破綻を招いてしまったのだろうか。
 ここから先は推測である。但し、本叙述が史実を忠実に描写したという確証がない以上は、物語の解釈として充分にその破綻経過を説明できるものと考える。
 破綻を生み出す仕組みを例示してみる。ある作者が、義元敗死の話を語らなければならなくなったと仮定しよう。作者と観衆は合戦の結末と信長のその後の活躍も知っている。ところが作者は実際の合戦を体験した訳ではなく、大まかな伝聞のみを知っていた。そこで作者は、義元が何故敗死したかを考察し、敗因として以下の項目を案出した。
■敵から丸見えの布陣により、居場所を捕捉された。
■作戦の徹底がなされず、勝手な突出で前線部隊が敗退した。
■兵力が不足していた。
■展開地点の足場が悪い上、雨にたたられた。
■強敵を弱敵と誤認して突出した。
 そのマイナス要因は、物語を語る上で当初は今川方に付せられたのではないか。プロトタイプを再現するならば以下のように考えられる。こちらのほうが、義元敗死への導入としては理に適っている。
a’)誤った判断
01)前線情報への非対応と家臣の嘲笑
 18日夕方、大高・鳴海の部隊から義元に報告が寄せられる。「大高城への兵粮搬入に乗じて、織田方は大潮になる夜に海上を移動、未明より攻撃してくるだろう」とのこと。ところがその夜、今川方の会議では作戦準備は議案に上がらなかった。雑談で時間ばかりが過ぎ、深夜だから帰るようにと指示が出た。今川の家老たちは「運が尽きる際は知恵の鏡も曇るというのはこのことだ」と嘲弄して帰った。
02)臨戦態勢構築の遅れ
 19日、予想通り、夜明けに大高・鳴海の部隊から「早くも鳴海と大高が攻撃された」と報告があった。義元は武装して食事、出陣した。主従6騎、雑兵200人程度で全速で沓掛の峠へ行くと、大高陥落と思しき煙が見えた。更に桶狭間へ移り、そこで部隊を編成した。
03)部隊の誤認
 攻撃直前、鳴海を攻囲する織田方を「あの武者は、昨夕に兵粮を使って、徹夜で行軍、大高で手間をかけ、辛労して疲れた武者だ。こちらは新手である」と誤認。それは信長本隊を含む部隊で、大高攻略部隊ではなかった。
b’)物理的不利
01)兵数
 織田方は45,000人。今川方は2,000人。今川方は先陣300名が攻撃をかけるが、50名が戦死する。
02)地勢
 信長は善照寺で休息。義元は沓掛から移動した部隊で鳴海手前の低地に布陣。畦道の両側は深田であり、高地にいる敵から行動が丸見えであると、家臣が鳴海方面への進撃時に制止。義元はそれを無視して進軍する。
03)天候
 攻撃直前、松巨島丘陵地手前に到達したものの低地から抜け出ていない今川方に、東方向より暴風雨。楠の巨木が倒れる程の突風。風雨によって、泥濘地帯にある今川方は身動きがとれなくなる。
 そしてこの直後、織田方の攻撃を受けた義元が敗死。ということであれば、筋運びの上で全く問題がない。
 ところが、この物語は単調で受けがよくなかったのではないだろうか。観衆は信長の英雄的な勝利譚を期待している。観衆を惹きつけるためには、物語前半で意外な危機に陥っている信長を語るのが効果的だ。できる限り不利な立場に追い込み、突然の天変地異で一転勝利する物語のほうが受けがいいだろう。そこで、マイナス要素を安直に信長へ転化した。そうすると、起伏に富む上スリルがあった。全ては観衆の受け狙いであり、そのための説明は省かれた。
 もしこの例のとおりであるなら、この叙述は講談のような口述であった可能性が高い。書面となると読み返しができるため、破綻している物語が目に付いてしまう。そしてその備忘録が世に出たのが『信長公記』首巻ではないか。それならば、首巻のみ記述の順番が前後している疑問点も解消される。年次の誤りも書面よりは追求されにくいだろう。
 諸々勘案すると、『信長公記』の『桶狭間合戦』は口述された物語で、事実性よりも娯楽性に重心を置いているという可能性が高いと思われる。従って、本サイトではこの叙述を機軸にした仮説構築は行なわず、同時代史料のみで1560(永禄3)年5月19日の合戦を考察する。
 本稿は『信長公記』の信憑性を完全に否定するものではない。ただ、その物語空間において叙述自らが招来した矛盾を解析したものである。

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