広瀬源兵衛口上之儀、何も承届候、委細御返事申入候、世谷口重御普請太儀察存候、御取手之御太儀候共、其口ニ御人数百宛被置、長沢ニ五十計、両所百五十之分四番ニ被定候て、可為六百之御人数候、是も田原一途間、可被仰付候、近日可被出馬候、如何様当年中可有一行候、可御心■候、委細重可申入候、恐々謹言、
 尚ゝ其辺之儀、疑心之事にて長辺へ人を越候ニてハなく候、方々のうたかいむつかしく候て、彼両人覚計の儀ニ越申候、屋形之儀、愚僧・朝三なと此分候、神も照覧あれ、無別儀候、可御心■候、
八月廿六日
雪斎 崇字判
牧野田三郎殿 参御報

→静岡県史 資料編7「太原崇孚書状写」(松平奥平家古文書写)

1547(天文16)年に比定。

 広瀬源兵衛が口頭で連絡したこと、何れも受諾しました。詳細なお返事を依頼しています。世谷方面に重ねて普請を行なってご苦労されていることと思います。砦のご苦労もありますが、この方面に軍勢100、長沢に50ばかりを配置して、2箇所150の分を4番に編成して、600人として下さい。これも田原攻略を最優先として指示しています。近日ご出馬され、どうあっても今年中に手立てを講じます。ご安心下さい。詳しくは重ねて申し入れます。
 更に更にそちらのこと、疑心にかられて長(沢の近)辺に部隊を派遣している訳ではありません。ほうぼうの疑いが解けずに、あの二人の考えだけで派遣されたのです。屋形(義元)のことは、私と朝三(朝比奈三河守?)なども同じですが、神かけて、事を違えることはありません。ご安心下さい。

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