七月七日治部当座 聖護院門跡御座也、内々東と和与御扱之由也、然間当国へ御下向之間、彼会へ入候也、河つらと詠けるを、河つらとハ今河家ニ禁也、同嶋も禁也、殊新嶋一段不吉、

七夕霞

霞にもむせふはかりに七夕のあふ瀬をいそく天の河岸

→静岡県史 資料編7「為和集」(宮内庁書陵部所蔵)

 7月7日治部大輔の座にて、聖護院門跡がご同席。内々で東(後北条氏)との和睦交渉をなさっているそうだ。そこで当国(駿河国)に下向し、あの会合に出た。「河つら」と詠んだのだが「河つら」は今川家では禁句である。同じく「嶋」も禁じられている。特に「新嶋」は一段と不吉となる。(和歌部分略)

右中弁正五位上同晴資『十六』

蔵人『三月廿七日転右中兼修理右宮城使』

去夏此依狂気下向駿河国、渡富士河没水中云々、後聞、依狂気令自害云々、

→静岡県史 資料編7「弁官補任」(天文二十年条)

右中弁正五位上、藤原晴資『十六』。蔵人『3月27日、転じて右中弁と兼任で修理右・宮城使』。去る夏に狂気により駿河国へ下向、富士川を渡り水中へ没するという。後で聞くと狂気により自害したのだという。

(3月)

今月十七日、氏輝死去[廿四日、止々]、同彦五郎同日遠行、

→静岡県史 資料編7「為和集」(宮内庁書陵部所蔵)

 今月17日、氏輝死去。24日に止々。同じく彦五郎が同日遠行。

(3月)

十八日、例之建長・円覚之僧達、為今川殿不例之祈祷大般若被読、然而十七日ニ氏照死去注進之間、即夜中被退経席畢、今川氏親一男也、

→静岡県史 資料編7「快元僧都記」

 18日、例の建長寺・円覚寺の僧たちが今川殿のため不例の祈祷で大般若経を読まれた。そして17日に氏輝が死去したとの報告があったので、すぐに夜中に経席を退出した。今川氏親の息子である。

(3月)

十七日、今川氏照・同彦五郎同時ニ死ス、

→静岡県史 資料編7「高白斎記」

 17日、今川氏輝・同じく彦五郎が同時に死す。

此年四月十日、駿河ノ屋形御兄弟死去被食候、

→静岡県史 資料編7「妙法寺記」

 この年4月10日、駿河の屋形ご兄弟が死去なされました。

(天文5年)

同五月廿四日夜、氏照ノ老母、福嶋越前守宿所へ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠ル、

→静岡県史 資料編7「高白斎記」

 5月24日夜、氏輝の老母が福嶋越前守の宿舎に行き、花蔵と同心。翌25日未明より駿府にて戦闘、夜中に福嶋党は久能山に立て篭もった。

(天文5年5月)

十日甲子、(中略)

一仮殿御遷宮事、六七月之間可然由、自小田原雖有之、駿州之其逆乱材木不調間、八月迄申延畢、材木者両月ニ可罷着之由註進有之、今川氏輝卒去跡、善徳寺殿・花蔵殿、依争論之合戦也、

→静岡県史 資料編7「快元僧都記」

 10日。一、仮殿への御遷宮のこと。6~7月の間に執り行うべきこと。小田原より指示があったものの、駿河国のその戦乱で材木が調達できず、8月まで延長しました。材木は両月に到着するとの報告があったが、今川氏輝が卒去した後、善徳寺殿・花蔵殿が争論によって合戦となったものである。

(天文5年)

其年六月八日、花倉殿・福島一門皆相模氏縄ノ人数か責コロシ被申候、去程ニ善徳守殿ニナホリ被食候、

→静岡県史 資料編7「妙法寺記」

 その年の6月8日、花倉殿・福島一門は皆相模国の氏綱の軍勢が攻め殺された。それを受けて善徳寺殿が守護になられた。

(天文5年)

六月十四日、花蔵生涯、

→静岡県史 資料編7「高白斎記」

七日、辛丑、晴、(中略)大隈来、参川国去月駿河・伊豆衆敗軍事語之、(後略)

→愛知県史 資料編10(実隆公記 永正五年十一月七日条)

 7日。辛丑。晴れ。(中略)大隈が来て、三河国で先月駿河・伊豆国の軍が敗退したと語った。

七日、陰、晩小雨、道賢以使云、遠江合戦落居、大河内父子切腹、今河帰国之由聞及云々、

→静岡県史 資料編7「1517(永正14)年9月7日の項目」(宣胤卿記)

 7日、陰、晩に小雨、堀川道賢が使いを出して「遠江国合戦で決着がつき、大河内父子が切腹、今川が帰国したと聞いた」と言ってきた。

此時駿州人数スキタリト聞ヘケルニヤ、先年大河内一味ノ浪人等又武衛ヲ大将ニ招キ楯籠リ天竜川前後ヲ押領ス、氏親出張シテ掛川ノ城ニ旗ヲ建ラレ、翌年五月ニ彼敵ヲ攻ラル、折節洪水シテ天竜川海ノ如シ、船橋ヲ懸ラレ竹大綱百渡シ、軍勢ヲヤスゝゝト打渡シ敵城亡ソメタリ、五十余町ノ追籠、六月ヨリ八月迄日々休ム隙ナク攻ラルゝ、城高山ナレハ阿部ヨリ金堀ヲ召シ、城中ノ筒井ノ水皆堀抜ケレハ敵次第ニ弱リ、大河内・巨海・高橋以下今度ノ敵張本共不残討レ、大将ノ武衛殿色々降参ノ望有ケレハ命計リ助被申、城ヲ追出普済寺ト申寺ニ入出家アリ、法名安心ト名付主従五人尾張ノ地へ送リ申、氏親数度戦功ニ恐レ、遠三ノ諸士皆ナヒキ従ヒケリ、

→静岡県史 資料編7「1517(永正14)年の項目」(今川家譜)

この時駿河国の軍勢に隙があると聞いたのだろうか、先年大河内の一味となった浪人たちが再び斯波を大将に招いて立て篭もり、天竜川の近辺を制圧した。氏親が出撃して掛川の城に本陣を置き、翌年5月にその敵を攻められた。ちょうど洪水となっており天竜川は海のようだった。船橋を架けて竹の大綱を100本渡し、軍勢を円滑に渡河させ敵城を滅亡させた。50町余りを追撃し、6月から8月まで休むことなく攻め立てられた。城は高い山にあったので安倍から金山鉱夫を呼び寄せ、城中の井戸の水を全て抜いてしまったので、敵は次第に弱り、大河内・巨海・高橋以下、この度の敵の張本人は残らず討たれた。大将の斯波氏は色々と降参の望みを言い立てたので命は助けられた。城を追い出して普済寺という寺で出家させ、法名安心と名づけ、主従6名を尾張の地に送った。氏親の数回の戦功に恐れをなし、遠江・三河国の諸士は皆なびき従った。