同十弐年亥
一、拾壱才之時。毛呂長兵衛と申牢人へ、手ならいニ参候。并ニうたいをならい申ニ、うたいそこない候へばはづかしき也。此師匠手前成兼候間、父母ニかくし、薪を自身はこび、かうりよく仕候へば、内義、茶の湯木をもらい候と慶也。余り嬉しがり、ちやうぎニのせられ候ヘば、心之中ニて腹たち申也。
同十三年子
一、拾弐才之時。春中、右長兵衛殿御遠行、ほつけ宗ニて法名けらくいんさうじやうと申候。則手本之うらに書付、ゑかう申。年寄たる時、物語ニ可仕と存候て、覚書仕候事、此時より心がけ申候。同年ニ養寿院ノ脇りやう千慶院ニて、又手ならい仕候。
「榎本弥左衛門覚書」P23
寛永12年亥年。一、11歳の時。毛呂長兵衛と申す浪人へ手習いに参りました。同時に謡を習いましたが、歌い損ないまして恥ずかしいことでした。この師匠は家計が苦しかったので、父母に隠して薪を自身で運び、合力したところ、内々で茶の湯の木をもらったと喜んでいました。余りに嬉しがっているので、計略に乗せられたのにと心中腹を立てたものです。
寛永13年子年。一、12歳の時。春の間に、右の長兵衛殿が亡くなった。法華宗で法名を「けらくいんさうじやう」と言いました。すぐに手本の裏に書き付け、回向申しました。年をとった時に物語に使おうと思って覚書をしたのは、この時から心がけたことです。同年に養寿院の脇寮千慶院にて、また手習いをしました。
日記類
1590(天正18)年5月16日
十六日(中略)
一小太郎東国人ヲ見廻テ帰了、昨夕帰ト云ゝ、一段城堅固、万ゝノ猛勢取巻、城ノ内五里四方ニ人勢六万在之申ト、永ゝ敷見ヘ了ト、人馬多ク死タル、道ノクサキ事無限云ゝ、
1590(天正18)年7月26日
廿六日(中略)
一小田原ノ様ムサゝゝト落居、氏直ハ家康ヘカケ入、先無別儀、父ノ氏正・弟奥州ノ守ハ生害、則盆以前ニ首二ツ京ヘ上了、ニセ物ノ様ニ申、今度猿楽衆上テ必定ゝゝ云ゝ、関白殿只人ニ非ス、ムサゝゝト天道ニテ落居ト聞ヘ了、頓テ御馬被入トテ、郡山ノ正二位大納言殿昨夕在京了、扨日本国六十余州嶋ゝ迄一円御存分ニ帰了、不思議ゝゝゝノ事也、高麗南蛮ヨリモ御礼ノ使罷越、京堺ニ逗留了、ゝ妙希代ゝゝ、
→小田原市史 資料編 原始 古代 中世Ⅰ 「多聞院日記」
5月16日。一、小太郎が東国の人を見回って帰ってきた。昨夕帰ったという。一段と城が堅固。数万の猛烈な軍が取り囲み、城の中5里四方に6万の軍勢がいるようで、これは長期戦になると。人馬が多く死んでいて、道が臭いこと限りなかったという。
7月26日。一、小田原の様子、むざむざと落城。氏直は家康の元に駆け入り、まずは無事だった。父の氏政とその弟陸奥守(氏照)は自害。そして盆以前に首級2つが京へ上った。贋物のように言われていたが、この度猿楽衆が上って「間違いない」と確証したという。関白殿はただの人ではない。むざむざと天道にて落城と聞いた。すぐに帰京なさるとのことで、郡山の大納言(秀長)殿は昨夕から在京。さても日本国60余州の島々まで一円の支配をなしてお帰りだ。不思議不思議のことだ。高麗・南蛮からも表敬の使者が来て京・堺に逗留している。奇妙で珍しいことだ。
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日記類
山田のをのゝゝ馳走、めをおどろかしつ。宗碩は此ついで尾張へこえ、長阿は北地の旅行やうゝゝ雪になるべくおどろかれて、此十六日におもひたちぬ。雲津川、阿野の津のあなた、当国牟楯のさかひにて、里のかよひもたえたるやうなり。あなたは関民部大輔、今は隠遁何似斎、こなたはたけより宮原七郎兵衛尉盛孝、阿野の津の八幡までいひあわせ、自身平尾の一宿まで山田をたち、平尾の一宿のあした夜をこめて出。たつの刻より雨しきりにふりて、みわたりのふなわたり塩たかくみち、風にあひて雲津川又洪水。乗物・人おほくそへられ送りとどけらる。此津、十余年以来荒野となりて、四・五千間の家、堂塔あとのみ。浅茅・よもぎが杣、まことに鶏犬はみえず、鳴鴉だに稀なり。折節雨風だにおそろし。送りの人は皆かへり、むかへの人はきたりあはずして、途をうしなひ、方をたがへたゝずみ侍る程に、ある知人きゝつけて、此あたりのあしがるをたのみ、窪田といふところ、二里送りとゝ゛けつ。其夜中に、関よりむかへ、乗物以下具して尋ねきたりぬ。今日の無為こそ不思議におぼえ侍れ。此所の一宿、おり湯などして、その夜のね覚に
おもひたつ老こそうらみすゝ゛か山ゆくすゑいかにならんとすらん
→宗長日記 「1522(大永2)年・山田より亀山へ」
山田の各々がもてなして、目を驚かせた。宗碩はこの後に尾張へ行き、私は、北陸への旅が雪になると驚いて、この16日に思い立った。雲津川と安濃津のあちら、この国と紛争の境界になって、民間人の通行も絶えているようだった。あちらは関民部大輔で、今は隠遁して何似斎。こちらは多気から宮原七郎兵衛尉盛孝が安濃津の八幡まで申し合わせて、平尾の宿までと山田を発って、一泊したのち夜明け前に出立。辰刻(午前8時頃)から雨がしきりに降って、舟の渡し場に潮が高く満ち、強風で雲津川もまた洪水。乗物と人を多く添えられて送り届けられた。この津は、十余年来荒野になって、4~5,000軒の家、堂や塔の跡のみ。寂しい荒地で、鶏や犬も見えず、カラスの鳴き声も稀であった。折りしも風雨が凄まじかった。送ってくれた人は皆帰ったのに迎えの人に巡り会えずに道を見失い。方角を間違えて立ち尽くしていたところ、ある知人が聞きつけて近辺の足軽に頼んで窪田というところまで2里送り届けてくれた。その夜半に、関からの迎えが乗物なども伴って尋ねてきた。今日無事だったことを不思議に思う。この宿で居り湯などを使ってその夜の寝覚めに(和歌略)
日記類
(九月)廿五日[戊午]、晴陰、(中略)伝聞、去月○[大]地震之日、伊勢・参河・駿河・伊豆、大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、数千人没命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也、
→愛知県史 資料編10「後法興院記」
9月25日。伝え聞くところによると、去る月の大地震の日、伊勢・三河・駿河・伊豆に大波が打ち寄せ、海辺の20~30町(2~3km)の民家を全て水没させ、数千人が落命、その他、牛馬などはその数も判らなかったという。前代未聞のことである。
同八月廿五日[己丑]、辰刻、大地震ニ高塩満来而、(中略)他国ヲ聞ニ三河片浜、遠江柿基・小河ト申在所者、一向人境共亡ト申、(後略)
→愛知県史 資料編10「皇代記」
8月25日、辰刻(午前8時)、大地震と高潮が満ち来たりて(中略)他国の状況を聞くに、三河国片浜・遠江国柿基・駿河国小川という在所は人里が全て亡んだという。
[note]このほかに、「龍渓院年代記」「定光寺年代記」「大唐日本王代年代記」にも同様の記事がある。[/note]
日記類