『家忠日記』における小田原開城行程
六月小 <中略> 十六日[丙戌]、下総より教傳[弟■主]こし候、城中ニ松田調儀候へ共、弟返忠候てちかい候、松田成敗ニあい候由候、 十七日[丁亥]、晩夕立、 十八日[戊子]、小口番ニこし候、 十九日[己丑]、 廿日[庚寅] …
六月小 <中略> 十六日[丙戌]、下総より教傳[弟■主]こし候、城中ニ松田調儀候へ共、弟返忠候てちかい候、松田成敗ニあい候由候、 十七日[丁亥]、晩夕立、 十八日[戊子]、小口番ニこし候、 十九日[己丑]、 廿日[庚寅] …
同十弐年亥 一、拾壱才之時。毛呂長兵衛と申牢人へ、手ならいニ参候。并ニうたいをならい申ニ、うたいそこない候へばはづかしき也。此師匠手前成兼候間、父母ニかくし、薪を自身はこび、かうりよく仕候へば、内義、茶の湯木をもらい候と …
1590(天正18)年5月16日 十六日(中略) 一小太郎東国人ヲ見廻テ帰了、昨夕帰ト云ゝ、一段城堅固、万ゝノ猛勢取巻、城ノ内五里四方ニ人勢六万在之申ト、永ゝ敷見ヘ了ト、人馬多ク死タル、道ノクサキ事無限云ゝ、 1590( …
山田のをのゝゝ馳走、めをおどろかしつ。宗碩は此ついで尾張へこえ、長阿は北地の旅行やうゝゝ雪になるべくおどろかれて、此十六日におもひたちぬ。雲津川、阿野の津のあなた、当国牟楯のさかひにて、里のかよひもたえたるやうなり。あな …
(九月)廿五日[戊午]、晴陰、(中略)伝聞、去月○[大]地震之日、伊勢・参河・駿河・伊豆、大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、数千人没命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也、 →愛知県史 資料編10「後法興院記」 9 …
一渓道看 天文九年六月六日 松平左馬助長家 月峰秀光 天文九年六月六日 松平甚六郎 信翁祥忠 天文九年六月六日 松平源次郎 [清康御舎弟信家、又信康] 明微道光 天文九年六月六日 …
甲辰 十三 九月廿二日未刻、濃州於井ノ口 尾州衆二千人打死、大将衆也、 →愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書) 1544(天文13)年の条項。
戊午 永禄元 三月十八日龍泉寺織田弾正忠城之鍬始在之、 →愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書) 愛知県史では織田弾正忠を信成と比定。
天文三年[甲午]六月廿二[午剋]、就動乱、堂塔已上九炎焼、 焼手松平之二郎三郎殿、当国住人、 →愛知県史 資料編10「八講諜裏書」(猿投神社文書)
壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、九月駿州義元八事マテ出陣、 →愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書) 1552(天文21)年に比定。