日記類

川越商人榎本弥左衛門、毛呂長兵衛に手習いした記憶を記す

同十弐年亥 一、拾壱才之時。毛呂長兵衛と申牢人へ、手ならいニ参候。并ニうたいをならい申ニ、うたいそこない候へばはづかしき也。此師匠手前成兼候間、父母ニかくし、薪を自身はこび、かうりよく仕候へば、内義、茶の湯木をもらい候と 川越商人榎本弥左衛門、毛呂長兵衛に手習いした記憶を記す

宗長、伊勢山田から関に移動する際、安濃津の荒廃を見聞する

山田のをのゝゝ馳走、めをおどろかしつ。宗碩は此ついで尾張へこえ、長阿は北地の旅行やうゝゝ雪になるべくおどろかれて、此十六日におもひたちぬ。雲津川、阿野の津のあなた、当国牟楯のさかひにて、里のかよひもたえたるやうなり。あな 宗長、伊勢山田から関に移動する際、安濃津の荒廃を見聞する

織田信秀、美濃に侵攻し敗退する

甲辰 十三 九月廿二日未刻、濃州於井ノ口 尾州衆二千人打死、大将衆也、 →愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書) 1544(天文13)年の条項。