正月以来度々竭粉骨、去二日於上野筋敵二人討捕候、高名之至感悦候、氏真御本意之上申立可加忠賞者也、仍如件、

永禄十二年[己巳] 三月八日

 氏政(花押)

井出甚助殿

→戦国遺文 今川氏編2308「北条氏政感状」(井出文書)

 正月以来度々粉骨を尽くし、去る2日、上野筋において敵2人を討ち取りました。高名の至りで感悦です。氏真がご本意の上は忠賞を加えるよう申し立てるでしょう。

就武州上戸難儀、各差遣候処、向相州相動候由、注進到来、数日陣労察之候、謹言、

十二月六日

 房能(花押)

発智六郎右衛門尉殿

→神奈川県史 資料編36448「上杉房能感状」(発智文書)

1504(永正元)年に比定。

 武蔵国上戸の難儀で各々を派遣したところ、相模国に向かって動きがあるとの報告が来ました。数日にわたる陣労をお察しします。

去年十二月廿六日、於相州実田要害、自身被疵、被官等同前、粉骨之至感之候、弥励軍功候者、可為神妙候、謹言、

正月十三日

 房能(花押)

発智六郎右衛門尉殿

→神奈川県史 資料編36449「上杉房能感状」(発智文書)

1505(永正2)年に比定。

 去る年12月26日、相模国実田要害において、自ら負傷し、被官も同様でした。粉骨の至りと感じ入っています。ますます軍功に励まれるなら神妙なことでしょう。

今度馳参走廻之条、神妙候、

永正十七年八月廿八日

 (高基花押)

中里対馬守とのへ

→戦国遺文古河公方編537「足利高基感状」(伊沢正作氏所蔵文書)

この度馳せ参じて活躍したのは、神妙です。

「[封紙ウハ書]江木戸豊後守とのへ」

相守久幹、今度走廻之条、神妙之至、感思召状如件、

永禄三年十二月廿九日

 (義氏花押)

江木戸豊後守とのへ

→戦国遺文 古河公方編858「足利義氏感状」(榎戸克弥氏所蔵文書)

 久幹を守り、この度活躍したのは神妙の至りと感じ思し召したのはこの通りである。

相守千代増丸走廻之条、神妙之至也、

天文十六年十二月廿八日

(足利晴氏花押)

富岡主税とのへ

→戦国遺文 古河公方編654「足利晴氏感状」(群馬県立歴史博物館所蔵富岡家古文書)

千代増丸を守って奔走したのは、神妙の至りである。

相守刑部太輔、無二忠信之由聞召之条、神妙也、弥可存其旨之状如件、

永正九年十月晦日

 (政氏花押)

富岡玄蕃允殿

→戦国遺文 古河公方編371「足利政氏感状」(群馬県立博物館所蔵富岡家古文書)

刑部大輔を守り、無二の忠信であることをお聞きになりました。神妙です。ますますそのように考えるように。

今度於飯田合戦之時、粉骨殊被切疵五ケ所之由、所無比類也、弥可励軍功之状如件、

永禄六年 十二月廿日

 上総介(花押)

小笠原与左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編1948「今川氏真感状」(小笠原文書)

 この度飯田での合戦のとき、粉骨して特に切り傷5箇所を負ったとのこと。比類のないところである。ますます軍功に励むように。

今度於飯田口合戦之時、致太刀打抽軍中、頸一討捕之旨神妙ニ候、弥可励戦功之状如件、

永禄六年 十二月廿日

 上総介(花押)

富士又八郎殿

→戦国遺文 今川氏編1947「今川氏真感状」(静岡県立中央図書館所蔵大宮司富士家文書)

 この度飯田口での合戦のとき、軍中でぬきんでる太刀打ちをして、首級1を討ち取ったことは神妙です。ますます戦功に励むように。

去十二日、三州御油口一戦之刻、走廻之段甚以感悦也、弥可抽軍忠之状如件、

永禄六[癸亥]年 六月五日

 上総介(花押)

小笠原与左衛門尉殿

→戦国遺文 今川氏編1923「今川氏真感状」(小笠原文書)

 去る12日、三河国御油口の一戦の際、駆け回ったことは大いに感悦である。ますます軍忠にぬきんでるように。