伊井谷奥山方広寺之事
一山四方境用木雑木等濫不可切取事
[但、有用要之時者、以朱印可申付事]
一祠堂徳政令免許事[付、門徒中輪番出仕等、不可有無沙汰事]
一為無縁所之間、如前々志次第勧進可仕之、同諸職人如前々志次第細工可仕事[付、門前屋敷四間之事]
右、為祈願所之間、諸事可為如近年、守此旨、国家安全勤行等、不可有怠慢者也、仍如件、
天正八 九月三日
 家康(花押)
方広寺

→静岡県史資料編8 1340「徳川家康判物」(方広寺文書○引佐町奥山)

 井伊谷奥山の方広寺のこと。一、山四方の境界内の用木・雑木などをみだりに切り取ること(但し必要な際は朱印によって申し付けること)。一、祠堂徳政から免除すること(付則、門徒中輪番での出仕など、無沙汰があってはならないこと)。一、無縁所とするので、以前のように志しだいで勧進をするように。同じく職人は以前のように志しだいで細工仕事をするように(付則、門前屋敷は4間であること)。右は、祈願所とするので、諸事は近年のようにするように。このことを守り、国家安全の勤行など、怠けてはならない。

 定
長篠在城之儀、自法性院殿被仰付候処、有応諾、則被相移候、於勝頼も祝着候、仍為在城料井伊谷相渡候、但以御先判拘来候分者、一切可被停綺、然而其方へ渡置候於井伊谷之内、小笠原左衛門尉・同日向守・常葉常陸守・同名安芸守四人へ、別而知行可有配当事肝要候者也、仍如件、
元亀四年[癸酉] 七月六日
 勝頼(花押)
小笠原掃部大夫殿

→静岡県史資料編8 640「武田勝頼判物」(小笠原文書下)

 定め書き。長篠に在城する件。武田晴信より仰せになっていたところ、承諾がありすぐにお移りになりました。勝頼においても祝着です。よって、在城料として井伊谷をお渡しします。但し、先の判形を持っている者へは一切異議を言わないこと。そしてあなたへ渡した井伊谷のうち、小笠原左衛門尉・同じく日向守・常葉常陸守・同名の安芸守の4人へは特別に知行を配ることが大切です。

於遠州井伊谷之内永代買之事
一居屋敷壱所之事[本銭五貫文也、次郎法師有印判]、坂田入道前[伹是者助六郎買得云々、
一田畠弐段事[本銭四貫文也]、須部彦二郎前
一都田瀬戸各半名事[本銭参拾貫文也、信濃守有袖判]、袴田対馬入道前
已上
右、何茂永代買得証文明鏡之条、縦彼売主等、以如何様之忠節雖企訴訟、一切不可許容、於子孫永不可有相違、信濃守代々令忠節之旨申之条、向後弥可勤奉公者也、仍如件、
永禄十[丁卯]年十月十三日
 上総介(花押)

→戦国遺文 今川氏編2150「今川氏真判物」(浜松市北区細江町中川・瀬戸文書)

 一、住んでいる屋敷1箇所のこと(本銭5貫文。次郎法師の印あり)。坂田入道の前(ただしこれは助六郎が買い取ったという)。一、田畑2段のこと(本銭4貫文)。須部彦次郎の前。一、都田・瀬戸それぞれ半名のこと(本銭30貫文。信濃守の印あり)。袴田対馬入道の前。以上。右は何れも永代で買い取った証文がはっきりしていますから、たとえ売主などがどのような忠節をなして、訴訟を企てたとしても、一切許容しない。子孫に至るまで相違があってはならない。信濃守の代々忠節のことを言ってきたので、今後はますます奉公を勤めるように。

去永禄十一年『戊辰十二月十三日駿』州錯『乱』、其砌、自奥津構令供、其『故兄兵衛』大夫為始、悉親類共雖令別心、於母妻一身遠州懸河致供、籠城中昼夜走廻、殊巳正月廿一日、於天王山一戦之刻、走廻之段神妙也、只今迄以無足雖令奉公、進退困窮付而、暇之儀申之間、無相違出上者、東西於何方茂進退可相定、本意之上早々馳来、如前々可致奉公、本地・新地・代官所今度忠節分者、各可為並者也、仍如件、

元亀二年[辛未] 九月廿五日

 氏真(花押)

冨永右馬助殿

→戦国遺文 今川氏編2489「今川氏真判物」(島根県浜田市・江木徹氏所蔵文書)『』内は後世に裏打紙に記された破損箇所の補筆。

 去る永禄11年(戊辰)12月13日に駿河国が内戦となったその際に、興津城から随伴し、そのために、兄兵衛大夫をはじめとして親類が全て裏切ったとはいえ、母・妻は体一つで遠江国掛川に供をした。籠城中は昼夜活躍して、特に巳年の1月21日、天王山で一戦したときに活躍したのは神妙である。現在に至るまで無給で奉公してくれているとはいえ、生活に困窮して暇乞いを願っているので、相違なく出そう。その上は、東西どちらにでも進退を決めればよいだろう。本意を遂げたならば早々に駆けつけて、以前のように奉公するように。本知行・新知行・代官職も、今度の忠節の分として、それぞれ並べよう。

牧野入城之刻より無々沙汰雖令奉公、任御内儀浜松へ罷帰之義、不及是非、於本意之時者走参可令奉公也、知行配当等之義者、一々其次第申付、不可有相違者也、仍如件、

天正五年[丑] 三月一日

 宗誾(花押)

海老江弥三郎殿

→戦国遺文 今川氏編2591「今川氏真判物」(広島大学大学院文学研究科日本史学研究室所蔵海老江文書)

 牧野入城の時から怠けることなく奉公してもらった。家康の意向で浜松へ帰還することは、是非を論じるまでもない。本意を遂げた折には、駆けつけて奉公するように。知行・配当などのことは、一つ一つその後で申し付けるから、相違があってはならない。

一、於当寺中、殺生不可致之事、

一、山中江木草取之儀、本道計可致往覆、若致脇道、枝木之一本も伐取候者、可処罪科事、

一、板屋ヶ窪壱貫五百文之所、如先規寄進申候事、

 付、諸役不可有之候事、

右条ゝ、申定所、仍如件、

天正十八年[庚寅] 正月廿六日

 直秀(花押)

長泉院 御同宿中

→戦国遺文 後北条氏編3631「松田直秀判物」(長泉院文書)

一、当寺中において、殺生をしてはならないこと。一、山の中へ木や草を取りに行く場合、本道だけを往復するように。もし脇道に入って枝木の1本でも伐採したなら、処罰するだろうこと。一、板屋ヶ窪1貫500文の知行は先の決まりのように寄進いたしますこと。付則、諸役を負担することがあってはならない。右の条々を定めるところである。

[今川氏真花押]

今度忍而令渡海之処ニ、自相州慕跡来之条、太忠信之到也、一乱以来、無相違令奉公上者、於本意之時者可及忠賞候、守此旨弥奉公可為肝要者也、此旨仍如件、

三月十五日

朝比奈弥太郎殿

→戦国遺文 今川氏編2585「今川氏真判物」(神奈川県川崎市・鎌田武男氏所蔵文書)

天正4~5年に比定。

この度耐え忍んで渡海したところ、相模国より跡を慕って来ましたので、はなはだ忠信の至りである。一乱以来相違なく奉公した上は、本意の時が来たら忠義を賞しましょう。このことを守り、ますます奉公することが肝要であろう。

万々渡海之儀辛労ニ候、然者家康申給候筋目於相調者、一段可為忠節候歟、甚内方へ能々可申計候也、仍如件、

九月十一日

 宗誾(花押)

朝比奈弥太郎殿

→戦国遺文 今川氏編2584「今川氏真判物」(神奈川県川崎市・鎌田武男氏所蔵文書)

天正4年に比定。

渡海のことは色々と大変でした。ということで、家康から申し出ていただいた筋目を調整してもらえれば、一段の忠節ではないでしょうか。甚内方へよくよく言っていただくばかりです。

今度西国衆就出張、早速参陣、殊無二可走廻由、肝要候、本意ニ付而者、於駿甲両国之間、知行可任望候、弥抽忠信尤候、仍如件、

天正十八年[庚寅] 六月廿日

 氏直(花押)

木呂子下野守殿

→小田原市史 小田原北条2 2075「北条氏直判物」(東京都清瀬市 木呂子和宏氏所蔵)同文の岩田河内守宛文書写が小田原編年録にあり。

 この度西国衆が侵攻したことで、早速参陣し、特に無二の活躍をするだろうとのこと、大切です。本意となった際は、駿河国・甲斐国のどちらかで知行は望みの通りとなるでしょう。ますます忠信にぬきんでますように。

今度西国衆就於出張、別而可走廻由、肝要候、本意之上、於上州駿州両国之間、一所可遣候、弥可被抽粉骨候、仍如件、

天正十八年[庚寅] 六月朔日

 氏直(花押)

林右馬助殿

→小田原市史 小田原北条2 2070「北条氏直判物」(林文書)

 この度西国衆が侵攻したことで、格別に活躍されるとのこと、大切です。本意となった際は、上野国・駿河国のどちらかで1つ知行を遣わします。ますます粉骨にぬきんでますように。