北条氏繁、高井新八郎に、佐竹勢来襲を知らせ、戦術目標を告げる
(切紙)書出 右、佐竹衆寄来之由、注進候、覚悟之前ニ候間、抽而軽身命就走廻者、望之知行、可遣之候、下妻衆可為先勢候之条、彼衆討捕候者、当日之可為本意、各存其旨、尽粉骨可走廻者也、仍如件、 天正五年丁丑 九月十五日 氏繁( …
(切紙)書出 右、佐竹衆寄来之由、注進候、覚悟之前ニ候間、抽而軽身命就走廻者、望之知行、可遣之候、下妻衆可為先勢候之条、彼衆討捕候者、当日之可為本意、各存其旨、尽粉骨可走廻者也、仍如件、 天正五年丁丑 九月十五日 氏繁( …
爰元在城七月迄申付候処、無相違御請申、於自今可引立候、鉢形知行親出置候、知行役等、当月廿五日より可申付候間、早ゝ在所へ人被越可申付者也、仍如件、 卯[「翕邦把福」朱印]四月五日 →戦国遺文 後北条氏編 2063「北条氏邦 …
一宮正木藤太郎逼迫候間、合力候、今廿三日より四・五・六、四日之間ニ、兵粮支度出来次第、百四十俵一宮へ遣、正木代自旗本之検使両人之請取状を、可被取候、仍如件、 追而彼兵粮、用ニ立様ニ可被申付候、 八月廿三日[虎印] 左衛門 …
鎌倉御領之内、経師谷尊養院屋敷分之事、四貫百二文、彼寺其方実子相拘ニ付而渡置、彼替従其方手前可出由御心得被成候、自今以後、尊養院へ年貢不可有催足候、以此印判、代官へ可及断、然者、彼替四貫百二文、岩本一騎合、於小田原給置間 …
一、先河越・松山之立馬候、別ニ仕置とても有間敷候、沼田普請人数可遣、又厩橋此一二ケ城可申付、其外東表似合ゝゝ普請仕置等可申付候、此外指当用無之間、軈而可明隙候事、 一、豆州にて雑説申廻儀、竪可被申付、当時努自甲抜手致得間 …
長尾・成田・深谷各返答披見、何も下知之筋目相済間、尤候、 一、由良善筋へ及行、百余人討捕由、物始之仕合、誠肝要至極、心地好候、 一、満水推量候、曲時分之連雨、無是非候、乍去今日晴候間、此侭可属晴候歟、普請之儀、雖不及申候 …
急度申達候、然者氏政為麦秋之動出馬候、御一勢可被立進候、自拙者相心得可申達之由、内義被申越之間、以使申届候、御人衆有御遅ゝ者、無其曲候条、来五日其地を被打立候様、堅可被仰付事、専肝候、委曲口上ニ申含候、恐ゝ謹言、 陸奥守 …
就当口着陣、早ゝ御使僧誠以喜悦候、近年者常陸口へ氏政被成進発故、久ゝ不申承候キ、前ゝ不相替相応之子細等、無御隔意就蒙仰者可為本望候、随而藻原自前ゝ老父別而申承候、此度房州口可罷向段屋形下知之間、任其儀三浦口へ出陣、拙夫当 …
来翰披閲、特丸薬両様三包到来祝着之至候、白血薬并万病円何ゝ之煩ニハ呑汁以何用候、委細被書立可給候、関宿普請取乱之間、委曲自是可申候、恐ゝ謹言、 五月十七日 氏照(花押) 掉雪斎 回章 →戦国遺文 後北条氏編 1852「北 …
[懸紙上書]「西浦百姓 大川兵庫助 評定衆」 西浦小代官藤守、或年貢を百姓ニ不為計而手前にて相計、或升目を掟之外取候、実犯露顕之上、被為籠舎、彼虚妄不出者、可被処死罪候、兎角向後彼藤守西浦へ被遣間敷旨、被仰出者、仍如件 …