今川義元、笠寺城の防衛を顕彰
去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言 永禄元年 三月三日 義元(花押) 浅井小四郎殿 飯尾豊前守殿 三浦左馬助殿 葛山播磨守殿 …
去晦之状令披見候、廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候、猶々堅固ニ可被相守也、謹言 永禄元年 三月三日 義元(花押) 浅井小四郎殿 飯尾豊前守殿 三浦左馬助殿 葛山播磨守殿 …
先度於舟渡橋、岩小屋江後詰之人数多之討捕、御粉骨之至、無比類御感状被遣候、源二郎殿、両度抽御馳走、御感悦異于他被思召候、然間、御腰物正恒、被進候、御面目之至候、将又九八郎殿儀、御親類中人質於牛久保ニ被置、以身血重諸余不可 …
参州細谷代官并給分五拾貫文之事 右、先年依吉田令内通忠節被出置、任先判形両通之旨領掌了、次代官徳分代方六貫八百文・米方四斗、同陣夫壱人之事、是又如年来可令所務候、縦彼地為知行自余江雖出置之、右之給恩五拾貫文并代官徳分米銭 …
今度三州雑説之刻、牛久保城米無之処、両人五百俵令取替之段忠節也、返弁之儀者、当秋中遠州之内菅沼新八郎知行河井之年貢米之内、本利可引取之、利息之儀者、世上次一割輒可奉公之旨申之条、所任其儀也、仍如件、 永禄四 辛酉 四月廿 …
去十一日於参州牛久保一戦、父兵庫助討死之由、不便之至、忠節無比類候、弥可抽戦功者也、仍如件、 永禄四 四月十四日 氏真 真木清十郎殿 同 小大夫殿 →愛知県史 資料編11「今川氏真感状写」(槙文書) 十一日、三河国牛 …
如尊意、其以来久不能面拝候処、貴札本望存候、仍御茶如御書中到来、殊一段勝申候条、一入賞翫申候、今度岡崎雑説出来候処、無別儀無事候間、可為御大慶候、何様来秋必可令参陣候条、以面上可令申候、此由可得御意候、恐惶謹言、 潤六月 …
高野山宝幢院次寮先祖雖為宿坊、及廿ヶ年無御音信候間、然者寺家之儀依無案内、蓮花院峯之寮申請候而、一札進置候、就其双方相論候間、則卅六道場江以書状尋申候処ニ、山之儀従往古旧証跡次第之理運ニ定之条、次寮可為宿坊之由、御返事相 …
大高城への補給が各月の19日に行なわれている点は検証a07で述べた。では、大高城はどのような状況にあったのか。鵜殿十郎三郎宛書状では、この時合戦があり負傷者が出ていることが判る。大高城付近では白兵戦も含めた交戦が行なわ …
善導寺へ清水左京亮きしん下地之事 合八百五十文め 坪石とう三百文め 同三ツ池五百五十文め 代末本そんへきしんいたし候、然者無ゑん所之儀之事候間、落居申事候ハゝ可如何有候と子細被申候、若何時清水左京亮前相違之儀候ハゝ従此方 …
壱年中寺江有納所年貢之事 正月分 仁王田 八十文永仙坊 五十文得寿坊 百五十文新坊可進 百文東林坊 卯月 誕生會 三百文水野民部殿 十月 大般若若田 百五十文多門院 百五十文泉蔵坊 十一月 大師講田 貳百文多門 …