大高城への補給が各月の19日に行なわれている点は検証a07で述べた。では、大高城はどのような状況にあったのか。鵜殿十郎三郎宛書状では、この時合戦があり負傷者が出ていることが判る。大高城付近では白兵戦も含めた交戦が行なわれていた。また、菅沼久助宛書状では戦闘が行なわれたのと同時に、兵糧のほか「人数」すなわち兵員も補充されていることが判る。膠着状態にある籠城であれば兵糧だけの搬入で済む筈だ。というよりも、兵員を増強すればそれだけ兵糧も必要になる訳で、単に飢餓状態にあるのではない。補充しなければならない程、兵員の損傷が激しかったと思われる。
 今川方が圧倒的に優勢で、以降大規模な作戦を演じるために兵員と兵糧を補充したとは考えにくい。戦闘がいずれも大高城周辺で行なわれていることから考えても、城内に補給を行なうのが精一杯だっただろう。
 では何故それが鳴海・沓掛ではなかったのか。鳴海のほうが最前線に存在し、現地形から考えても大高ほど規模は大きくないと思われる。また、沓掛は比高も低く防御レベルは高くない。西にある二村山を押さえれば城内は丸見えとなる。城の東を境川が流れているが、これは西からの侵攻を妨げるものではない。
 だが、5月19日合戦の焦点となった鳴海・大高・沓掛の中で、織田方にとって最も攻めやすかったのが大高だった、としか説明のしようがない。大高を失陥させれば鳴海・沓掛も自動的に開城に追い込めるのであれば、犠牲を承知で戦略的に大高を攻めたと仮定できるが、大高・沓掛が開城しても鳴海が保持できることは岡部五郎兵衛尉の実績で後に証明されている。また、沓掛を攻撃していないことから考えて、二村山は今川方が確保していたものと推測できる。やはり、攻めやすく守りにくい条件が大高には存在したのだろう。
 大高城は北と東に大高川、西に伊勢湾を配している。防御が甘くなるのは南からの攻撃に対してである。ということは、知多半島側からの攻撃を受けていたことになる。熱田から海上を移動し、大高南方に上陸すればこの作戦は可能だ。ただし海路の確保が不可欠となる。
 織田方が海路の安全を握っていたとすると、検証07での推論は逆転する。今川方は、大潮ではなく、干潮時に補給を行なおうとしていたことになる。いずれにせよ19日は潮の干満が激しい日である。熱田からの援軍が来づらい日時を狙い、大高南方に布陣する敵を攻撃しながら陸路大高に補給を行なった可能性が出てくるだろう。

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