高野山宝幢院次寮先祖雖為宿坊、及廿ヶ年無御音信候間、然者寺家之儀依無案内、蓮花院峯之寮申請候而、一札進置候、就其双方相論候間、則卅六道場江以書状尋申候処ニ、山之儀従往古旧証跡次第之理運ニ定之条、次寮可為宿坊之由、御返事相意得申候、此上ハ末代不可有相違候、仍後日如件
永禄七年甲子菊秋日
水野藤四郎
元茂(花押)
水野前下野守
信元(花押)
奥谷
次寮参[其後大通院ト号、又後常慶院ト改ム]
[此時緒川元茂取次清水左京亮]
[苅屋信元取次斎藤助十郎信家]
→新編東浦町誌「高野山常慶院有之消息写」
[ ]は後世の筆と思われる。
高野山宝幢院の次寮は先祖が宿舎としていたのですが、20年にわたり音信がなかったので、寺のことは無案内でした。蓮花院の峯之寮が申請したので裁可しましたが、双方が争論となり、36の道場へそれぞれ書状で尋ねたところ「高野山のことは昔からの取り決めに任せて定めることで、次寮を宿舎すべきである」と返答を得ました。この上は末代まで相違ないようにし、後日のために取り決めます。