至于永禄三稔庚申四月、洪兄濫詐于礼部、々々決之、以拈鬮住持焉、霊鑑之所至乎、上坐看于臨在、洪兄住持本寺也、同五月十九日、礼部於尾之田楽窪、一戦而自吻矣、嗣太守上総介氏真公命上座司後因、号天澤寺殿、創墳寺於府之傍也、礼部始之諱者承芳也、

→戦国遺文 今川氏編2634「護国禅師雪斎遠諱香語写」(静岡市葵区大岩町・臨在寺所蔵)【一部のみ抜粋】1587(天正15)年10月の明記あり。

永禄3年庚申4月、『洪兄濫詐』が礼部(今川義元)からこれを決し、くじを捻って住持となる。霊鑑の至るところか。上座して臨在を看る。洪兄住持は本寺なり。同年5月19日、礼部は尾張の田楽窪で一戦して自刎する。太守を継いだ上総介氏真公が上座を命じて『後因』を司る。号して天沢寺殿。菩提寺を駿府の傍らに創る。礼部初めの諱は承芳なり。

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