後北条モノリス

東京の浜松町駅から見下ろせる位置に、旧芝離宮公園がある。

近世に小田原を治めた大久保氏は一度失脚しており、その後盛り返したのが大久保忠朝。老中にもなった忠朝が四代家綱から埋立地を拝領したのが、ここに庭園ができるきっかけになったそうだ(園内パンフレットより)。

先日浜松町で空き時間ができたため、以前聞き及んでいた『謎の石柱』を見に行った。

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↑築山から見下ろしたところ。4本が短辺3メートル×長辺5メートルで配置され、池に突き出た位置にある。周囲の風景からちょっと浮いている。

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↑近寄ってみると、古風な立て看板がある。旧芝離宮恩賜庭園「謎の石柱」:電脳日和下駄によると、

この石柱が何のために設けられたか謎である。楼閣の跡、馬つなぎの石、熊野信仰に関係ある石造物、海運の標識塔などいくつかの説があるが確かなことは不明である。

と書いてあるという。さてそこでさらに進んでみる……。

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↑上から貼り紙が。松田憲秀の屋敷にあった門柱を、大久保氏が小田原で再利用し、更に江戸に運んできて茶室の柱にしたらしい。

などと白々しい前振りはさておき(最初からこの考証があることを知っていて来た)。でも、最近まで謎だったのは本当に知らなかった。上記ブログが2006(平成18)年に書かれた際は、まだ上の訂正文は貼っていなかった模様。公園の入り口でも案内パネルに「長い間謎でした」と書いてあった。いつどうやって判ったのだろう。

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↑石柱は高さ2メートルほど。幅は50センチ程度だった。上の方が焼けているのは、関東大震災時の火災によるそうだ。石が痩せるほどなので、結構高温だったのかも知れない。

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↑よく観察すると、割れた部分はセメントで補修している。穴は、江戸へ運ぶために空けたのか、松田氏時代から空いていたのか判らない。

庭園をそぞろ歩いている人たちは「なんだこれ?」的な視線で見ていたが、事情を知る身としては非常に感慨深いものがあった。この門柱は、松田康長や笠原政晴が出入りしたのだろうかとか、憲秀切腹を伝える使者が通ったのだろうかとか、黙想にふけること暫し。

松田憲秀屋敷については、いつも有益な情報をくれる萩真さんのブログに記事がある。ご興味のある方はぜひご一読を。

小田原城開城の日に歩く、北条の小田原:マリコ・ポーロの後北条見聞録

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2 comments untill now

  1. マリコ・ポーロ @ 2014-05-19 10:43

    「しうしん」です(笑)。
    ご紹介恐れ入ります。

    本当ですね。どうして分かったのでしょう。記録でも見つかったのでしょうかねえ。

    石柱門というとお寺のものというイメージがありますが、武家でもけっこうあるものなのでしょうかね。

  2. コメントありがとうございます。

    来歴が判明したのは、小田原市史に運搬時の記録があったのかと推測しています。今度機会があったら公園に問い合わせてみようと思います。

    石柱はそれなりに巨大なので、むき出しではなくて上に屋根が載っていたような感じがします。再利用時も茶室の柱にしていたそうなので。これだけ立派な門柱は結構珍しくて、綱吉の来駕のためにわざわざ運んできたのかも知れません。