同十弐年亥
一、拾壱才之時。毛呂長兵衛と申牢人へ、手ならいニ参候。并ニうたいをならい申ニ、うたいそこない候へばはづかしき也。此師匠手前成兼候間、父母ニかくし、薪を自身はこび、かうりよく仕候へば、内義、茶の湯木をもらい候と慶也。余り嬉しがり、ちやうぎニのせられ候ヘば、心之中ニて腹たち申也。
同十三年子
一、拾弐才之時。春中、右長兵衛殿御遠行、ほつけ宗ニて法名けらくいんさうじやうと申候。則手本之うらに書付、ゑかう申。年寄たる時、物語ニ可仕と存候て、覚書仕候事、此時より心がけ申候。同年ニ養寿院ノ脇りやう千慶院ニて、又手ならい仕候。
「榎本弥左衛門覚書」P23
寛永12年亥年。一、11歳の時。毛呂長兵衛と申す浪人へ手習いに参りました。同時に謡を習いましたが、歌い損ないまして恥ずかしいことでした。この師匠は家計が苦しかったので、父母に隠して薪を自身で運び、合力したところ、内々で茶の湯の木をもらったと喜んでいました。余りに嬉しがっているので、計略に乗せられたのにと心中腹を立てたものです。
寛永13年子年。一、12歳の時。春の間に、右の長兵衛殿が亡くなった。法華宗で法名を「けらくいんさうじやう」と言いました。すぐに手本の裏に書き付け、回向申しました。年をとった時に物語に使おうと思って覚書をしたのは、この時から心がけたことです。同年に養寿院の脇寮千慶院にて、また手習いをしました。