『椙山之陣』を嵐山町の杉山とする根拠は、竹井英文氏と斎藤慎一氏が言及している。

■千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」(竹井英文)

「毛呂氏が本拠とする武蔵毛呂郷の地理的位置、高基と憲房と毛呂氏が連携して戦争を行っていること、先述したように憲房が主に武蔵と上野で戦争を行っていることを念頭に「椙山」という地名を探すと、それは佐藤氏の比定通り、杉山城が存在する埼玉県嵐山町と考えられる」(91ページ)

■中世東国の領域と城館(斉藤慎一)

「冒頭の「椙山之陣」について、『戦国遺文』では埼玉県嵐山町の注を付している。上杉憲房・足利高基・毛呂氏の三者の地理的状況を考えれば、同所に比定されるのは必然的と思われる。」(251ページ)

本当にそうだろうか。武蔵国に他の候補はあるのに、どちらの論文にもそれらを検討・除外したという記述はない。改めて考えてみたい。

『角川書店地名辞典』から候補地を列挙してみる。

A)埼玉県本庄市杉山

利根川と烏川の合流地点にあり、平井城の憲房が鉢形城にいた顕実と家督を争った際に憲房が陣を張ったと想定できる。

ここにある日輪寺は元応年間創建と伝わっており、当時杉山という地名が存在していた可能性も高い。また、連歌師宗長は『東路のつと』で、1510(永正7)年に鉢形から長井まで道案内した者の名を「杉山」と書いている。日没前に宿所に辿り着けなかった宗長は、恐らく杉山の案内で道を引き返してようやく宿を探し当てた。この杉山某は本庄市杉山の住人だったのではないか。

具体的には、古河公方と上杉氏が最初に戦った際に上杉方陣地として用いられた五十子陣の北方にあることから考えて、1511(永正8)年から翌年にかけて、平井城の憲房が鉢形城の顕実と争った際に使用したと想定できる。顕実が新田近辺に出撃する予定があったことは政氏書状で確認できる。与同する足利長尾氏・横瀬氏の渡河地点を確保しつつ、和解に尽力する扇谷朝良の拠点川越から距離を置くとなるとこの候補地は有力だろう。

B)神奈川県横浜市西区

地名辞典に掲載されているのは昭和3~41年の町名だが、名前の由来である杉山神社は多摩川右岸(横浜市・川崎市・町田市)に多数存在しており、町田市三輪には「椙山之陣」と同字の「椙山神社」が現存する。1510(永正7)年に権現山で上田氏が蜂起し、山内・扇谷の上杉氏が連携してこれを攻めた際に、山内方の後方陣地として機能した可能性がある。

但し憲房自身は権現山合戦を「上田一戦」と書いている(「発知山城入道宛書状」駿河台大学論叢41号13)。何れかの杉山神社に本陣を据えていたと伝聞した高基が「椙山之陣」と記す可能性は捨てきれないものの、この点から候補地としては難しいように思う。

ちなみに、町田市三輪の椙山神社の近くには、後に北条氏照が言及した沢山城跡があり、式内論社(延喜式に載った杉山神社はどれか判らなくなっているため「論社」と呼ばれる候補がいくつかある)3つ(茅ヶ崎ノ杉山神社・中川ノ杉山神社・吉田ノ杉山神社)が集中する中心部には、茅ヶ崎城が存在する。

C)御殿峠(八王子市片倉町・町田市相原町)

1569(永禄12)年に北条氏照が言及した「杉山峠山」。多摩郡から相模国当麻宿に抜ける鎌倉街道があり、滝山城攻囲を切り上げた武田晴信は杉山峠を越えて小田原に向かった。殿丸という高台や屋敷跡地の伝承もあり、陣所として機能した形跡もある。「御殿峠」という名称になったのは明治以降だということで、比定地としては問題ない。

山内・扇谷の両上杉氏が争った長享の乱では、山内氏が相模に何度も侵入している。1488(長享2)年の実蒔原合戦、1496(明応5)年の西郡一変、1504(永正元)年の立河原合戦から椚田奪還、実田攻めという流れから考えると、川越を攻めつつ、三田・大石といった有力家臣の勢力がある多摩郡から相模国へ転進したのが山内氏の戦略であったのだろう。さらに、1510(永正7)年には5月以前に椚田が1日だけ自落しており、7月の権現山合戦との関連性も考えられる。相模国西部から伊勢宗瑞が来ることを考慮すると、前線部隊を権現山に送りつつ、憲房自身は杉山峠にいて伊勢氏を牽制していた可能性がある。

D)杉山(嵐山町)

場所から考えて、1488(長享2)年の須賀谷原合戦との関連が高いように思う。しかし、6月の須賀谷原合戦の直後の11月、扇谷方に高見原まで攻め込まれていること、1494(明応3)年にも同じく高見原まで扇谷定正が侵攻していることから、ここに陣を置く局面があったかは不明。

竹井氏・斎藤氏の論文では、長享の乱後を想定している。『勝山記』『石川忠総留書』から両上杉氏に抗争があり、その際に『椙山之陣』が置かれたという考えだ。しかしこの時期の扇谷氏は東進する北条氏綱への対策に奔走しており、勢力も弱くなっている。憲房が嵐山杉山に陣を置くほどの軍事的緊張があったとは考えがたい。

むしろ、氏綱に川越を奪われた1535(天文4)年8月以降の方が自然である。川越奪回を狙う扇谷方の拠点として両上杉氏が共同構築したのであれば、現在残っているという技巧を凝らした縄張りも首肯し得るだろう。但しそうなると『椙山之陣』文書に登場する人物がつながらない。足利高基は同年6月に死去、上杉憲房に至ってはその10年前に亡くなっている。また、毛呂土佐守は1524(大永4)年以前に氏綱方に変わっている。

※黒田基樹氏比定では1511(永正8)年となっている、「釜形陣以来」という表現のある憲房書状がある。文中に「可諄も同意候き」とあることから顕定生前のものとされているようだが、「釜形」を嵐山町鎌形と考えると1524(大永4)年の毛呂城争奪に関係していると思われる。この点は別記事で何れ検討したい。

上記をまとめると、Cの杉山峠は長享の乱を通じて可能性があり、また権現山合戦時でも想定が可能である。ここが第1候補といえる。Aの本庄杉山は憲房・顕実係争時にしか比定できないが、利根川渡河地点との関連性を考慮すると充分可能性はある。Bの杉山神社群は比定地が曖昧で絞りきれない点と憲房が「上田一戦」と表現している点が弱い。今後新情報が出た際には考慮すべきかも知れないが、現時点では明確な候補地にはなり得ない。Dの嵐山杉山については、完全に否定するところではないものの解釈が最も苦しいと言わざるを得ない。

ちなみに近世の『武蔵田園簿』に出てくる「杉山村」は、本庄市と嵐山町の2つのみである。

『椙山之陣』関係地一覧

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