発端は埼玉県嵐山町の杉山城跡
『杉山城問題』と言われる、歴史学上の解釈の議論がある。埼玉県嵐山町杉山に遺構が存在する杉山城に関して、発掘された陶磁器の年代測定にて1450~1525年頃という見解が出されたことに端を発している。その見解が出るまでは、縄張り構成から城郭研究者が天文末年以降の後北条氏築城と唱えていた。このため、発掘調査の結果と齟齬が発生した。同時に、継続して発展・拡張されたものではなく1度使った後は放棄されたとの見解が発掘者から出てきた。こうなると、「じゃあどちらなのか?」的な議論になってくる。
その後『戦国遺文古河公方編』が、毛呂土佐守宛・足利高基書状写の「椙山之陣」を嵐山町杉山に比定した。このために「発掘調査と文書が適合した」とする主張が出てきた。書状写内の足利高基・上杉憲房の活躍時期から、後北条氏が進出する前に杉山城が存在したというのである。
この主張をしているのは、『千葉史学51号「戦国前期東国の戦争と城郭-「杉山城問題」に寄せて-」』(竹井英文氏)と『中世東国の領域と城館』(斎藤慎一氏)の2論文である。
この問題の詳細については、静岡のお城というサイトの「お城の研究」>「最新の研究動向紹介」に判りやすくまとめられている。私の稚拙で駆け足な説明では心もとないので、興味を持った方は是非ご参照を。
『杉山城問題』の論点を短くすると以下のようになる。
[note]城郭研究:後北条氏がその城郭技術を用いて築造した高度な設計と定義
発掘結果:後北条氏が川越を領有する1537(天文6)年以前と指摘
文献研究:「椙山之陣」=嵐山杉山城と比定し、山内上杉氏関与と指摘[/note]
[warning]私は研究史に疎いのでちょっと胡乱だが、研究として先行したのは縄張りを現地に行って調べて回る城郭研究だと思っている。年代測定の技法・発掘状況を考えると考古学的研究は最近のものだろう。そして、文献研究についても自治体史を中心とする文書の編年列挙・釈文化が本格化したのは80年代以降だと思うので、実は新参としての側面がある。であれば、先行する城郭研究は後進に否定されたことになり、ここに、この懸案が純粋論理で展開できていないように見える素地が隠されているような気もする。[/warning]
文書をちょっと調べてみた
縄張り論や遺物論への知識はないが、古文書であれば私にも少し判る。その書状写を読んでみた。
椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、
九月五日
足利高基ノ由
花押
毛呂土佐守殿
非常に短い。一読すると「『椙山之陣』からずっと毛呂土佐守が上杉憲房を守備したと、足利高基が誉めた」という内容だ。文中で登場する上杉憲房の生没年は1467(応仁元)年~1525(大永5)年。1450~1525年という発掘調査結果と合致している。なるほどと思いつつ、少し疑問が出てきた。
1)この文書は正しいものか?
写しというよりは家譜内に記されただけの文書であることから、綿密な検討が必要だろう。毛呂氏の諸系図には一次史料で判っている人物が入っていない(三河守・季長・左衛門丞)。特に三田氏から毛呂幻世の養子に入ったことが確実な季長は、永正年間に元服しており、今回の文書とほぼ同時期に活躍した人物だ(武蔵三田氏 論集・戦国大名と国衆4/黒田基樹)。毛呂氏にとっても中世末期の最重要人物だが、何故か系図には存在しない(毛呂山町史料集第3集)。
その一方で、旗本として近世中期に仕官した毛呂長敬・大谷木季貞は出てくる。となるとこれらの系図は長敬・季貞の仕官用に作成された可能性が高く、戦国期以前の信頼性には問題があると思う。『毛呂山田系譜』では永和~応永年の人物と、1567(永禄10)年卒の義春で官途を『因幡守』としていることから、上野国佐貫の別系統『茂呂』氏から文書を買い取った可能性もあるだろう。
2)文書の解釈は正しいのか?
まず、「以来」という語の扱いが気になっている。竹井氏・斎藤氏の杉山嵐山説では、「椙山之陣」発生時と高基発給時を近い日取りで考えているようだ。しかし、他の文書を見る限り「以来」は結構遡れる表現である。また、「相守」については物理的な守備・警護を意味していないことが歴代古河公方文書で判った。1と合わせて次回検討してみる。
3)土地の比定は嵐山のみか?
「杉山」は、高山・松山などとともに、割合普遍的に存在している地名ではないだろうか。地名辞典を見ても他の候補は存在した。そこで、それぞれを列記して検討する。
などと書き立ててはいるが、日曜史家ゆえに認識違いや知識不足、論の齟齬も多いと思う。自説に拘泥するものではないので、お気づきの点は随時コメントをいただきたい。