1)高基が発給したのはいつか。

代々の古河公方が発給してきた文書には「相守」をキーワードにしたものがいくつか残されていることを確認した。

では『椙山之陣』07号文書の発給はいつか。発給者の足利高基の状況を確認してみよう。

高基の初名は高氏だが、07号は「高基」名義である。高氏名義文書の終見は1508(永正5)年、高基の没年は1535(天文4)年なので、この間であることは確実だ。

そして、文中に出てくる上杉憲房の養父である顕定は政氏と高基の和解に奔走した人なので、顕定が生きている間に、顕実を蔑ろにするようなこの書状が発されたとは考えづらい。そうなると始点は1510(永正7)年6月以降となる。

 1516(永正13)年には高基の家督相続が確定していることから、終点はここかも知れない。もっと絞るならば、憲房が関東管領となっていない期間、もう1人の養子である顕実(政氏の弟で反高基派)を鉢形から追い出した1512(永正9)年6月までとする考え方もできるだろう。

憲房・顕実の係争時の発給と考えると、毛呂土佐守にわざわざ高基が『相守文書』を出した要因も判り易い。高基元服後で山内上杉氏が割れたのはこの時だけだからだ。憲房派には横瀬・足利長尾が、顕実派には惣社長尾・成田がいる。三田・大石といった武蔵西部の国衆の去就は明らかになっていないが、顕実の鉢形城が3日も持たずに開城していることから、憲房派となった可能性は非常に高いと考えられる。

『椙山之陣』07号文書の日付は9月なので、6月に顕定が戦死し憲房が越後と上野、武蔵を駆け回っていた永正7年はちょっと考えづらいように思う。実際、8月3日憲房書状では、権現山合戦に部隊を派遣したという記述と、未だに沼田付近で長尾景春と対陣していることが述べられている。同様に、6月には鉢形が自落している永正9年も疑問だ。高基に追認されなくても憲房の政権は確定しているのだから。

上記を受けてこの論では1511(永正8)年9月の「椙山之陣」文書が発給されたと仮定してみる。時に、古河にいる政氏が49歳、関宿で対抗している高基は26歳。高基派についた憲房は44歳だから、高基とは親子ほどの年齢差がある。47歳と推測される扇谷の朝良が政氏と憲房の間にいる形だ。ちなみに、長尾景春は67歳、伊勢宗瑞は55歳(新説)で伊勢氏綱は24歳。長尾為景は21歳、武田信虎は17歳で今川氏親は38歳。

まとめると、以下のようになる。

■老年:長尾景春・伊勢宗瑞
■壮年:足利政氏・扇谷朝良・山内憲房
■中年:今川氏親
■若年:足利高基・伊勢氏綱・長尾為景・武田信虎

さて、この時の憲房の状況を考えてみよう。自らも越後に同陣した顕定の敗死後、仇敵長尾為景に便乗するように長尾景春・伊勢宗瑞がちょっかいをかけてきた。中でも権現山で上田蔵人を蜂起させた宗瑞は手強く、扇谷朝良と共同で素早く鎮圧して被害を最小限に留めているものの、一歩間違えれば相模・武蔵を失う可能性もあった。

悪戦苦闘の日々の中で、何もしていない顕実が管領となっている。そんなところに高基から声がかかる。典型的な自派工作だが、憲房にとっては渡りに船だ。気脈の通じた者を列挙して『相守文書』を発給してもらい、政氏=顕実派の切り崩しを始めた。朝良が「顕実・憲房間事、是又色ゝ様ゝ雖令教訓候、為事不成」と嘆いていることから考えても、顕実と憲房の係争は朝良の仲裁を受けながら一定期間継続していた可能性が高い。

2)「椙山之陣」はいつ起きた?

発給が永正8年9月だったとすると、「椙山之陣」が発生したのはいつだろうか。竹井氏の論文で、山田氏家譜内に「椙山之陣」は1503(文亀3)年との注記がある旨報告されている。その他の記載内容から竹井氏はこの注記は考証に耐えないとしているが、日付に関しては正しく伝わっている可能性も捨てきれないと思う。

実は、その翌年である文亀4年は途中で改元して永正元年となってその11月に立河原合戦が起こる。これに毛呂土佐守入道が関わったのは確実なので、一概に退けるべきではないだろう。この頃は山内・扇谷が係争する長享の乱の末期に当たり、伊勢宗瑞を媒介して今川氏親の援軍を活用した扇谷朝良が暫定的に優位に立っている(その直後に越後勢を引き入れた山内顕定が巻き返す)。

宗長の手記によると、この立河原合戦の直前まで山内・扇谷両軍は膠着状態にあった。そこへ急遽伊勢・今川・朝比奈・福島の扇谷への援軍が稲毛枡形山へ集結。後退する敵を追って一晩野営し、翌朝から戦闘、最後に山内方が立川に退却して一連の戦闘は終了している。

つまり、枡形山からどこかへ向けて連合軍は進撃しており、立川は山内方が最終的に逃げ込んだ場所になる。「立河原」と呼ばれたのは、多摩川を立川へ渡河する山内方を追撃した戦闘が最も大規模だったために名づけられたのだと考えられる。山内方の退却路としては関戸からのルートも充分考えられるが、その年12月に椚田要害を山内方が奪回していることから考えると、杉山峠から片倉城(椚田要害)で奇襲を受けて日野経由で立川へ落ちて行ったという解釈も有力だろう。山内方は、西多摩の有力被官である大石・三田氏の支援のもと、長享の乱初期から相模への侵入を度々行なっていたと思われ、そのルートを退却していったとも受け取れる。

各人員の年齢を並べると、1503(文亀3)年は、政氏41歳、高基18歳。憲房は36歳で朝良は39歳。長尾景春は59歳、伊勢宗瑞は47歳(新説)で伊勢氏綱は16歳、今川氏親は30歳。

 あくまでも、文書が正文であるという前提だが、1503(文亀3)年に発生したのが武相国境の「椙山之陣」で、高基から土佐守に発給されたのが1511(永正8)年と考察してみた。

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