どうやって伝わってきたかを考える。

最後に個人的な推論を述べておこうと思う。『相守文書』で考察したように、毛呂土佐守宛07号文書の存在は不自然な点がある。

01)文書の分布から、武蔵国入間郡の毛呂氏よりは、上野国邑楽郡佐貫の茂呂氏が適切

02)01と同様に、山内上杉家督・関東管領である憲房よりは、富岡氏・茂呂氏の上位である赤井氏(重秀・文六・刑部大輔 など)が適切

03)「無二」を伴わないことから、「相守」の前にある「椙山之陣以来」の存在は不自然であり、後世付加の可能性が高い

04)03と同様に、「謹言」も他文書に見られず後世付加の可能性が高い

05)発給者は「高基」「政氏」「晴氏」全ての可能性があるが、誰だったかは不明。「走廻之条、神妙之至」が同文言であることから、晴氏の09号文書に仮託しておく。

改変を想定するとして、どのような段階や意図を経たものかを検討してみよう。

Version_A

相守千代増丸走廻之条、神妙之至也、

天文十六年 九月五日

(足利晴氏花押)

茂呂因幡守とのへ

これが私の考える文書の原型だ。ベースとしている09号文書(富岡主税宛・足利晴氏書状)は、1547(天文16)年の年次が記載されている。赤井氏と富岡氏が関連すること、後の1552(天文21)年には、後北条政権下で茂呂氏が富岡氏を指揮下においていることから、確度は高いものと思う。

そして、この文書が上野茂呂氏から武蔵毛呂氏に渡ったのち、自家の文書とするために擦り消しが行なわれたのではないだろうか

Version_B

相守■■■走廻之条、神妙之至也、

■■■■■ 九月五日

(足利晴氏花押)

■呂■■守とのへ

更にその後、確実に自家のものとするべく異筆による書き足しが行なわれた。

Version_C

相守■■走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

VersionBとCが同一人物かどうかは不明だが、「相守」の対象人物はこの段階では特定できていなかったものと考えている。擦り消されたままで放置されたからこそ、現存文書に見られる混乱があったと想定しているからだ。

ここで、実際に残された下記の残存形態の方に視点を移してみる。山田吉令が書き留めた記録は2種類ある。

Version_Z

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

足利高基ノ由

花押

毛呂土佐守殿

註「■■文亀三年ト有」

Version_Y

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

憲 花押

毛呂土佐守殿

註「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」

現存する文書では、「相守」の対象が上杉憲房に固定され、その契機として「椙山之陣」が記載されている。「無二」を伴わないことから見て「椙山之陣以来」の後世追記は確実として、なぜ唐突に「椙山之陣」が登場するのかが判らない。

また、当初は入っていて擦り消された年次が、なぜ1503(文亀3)年になっているのか。興味を引くのが、Zが矛盾してしまっている点だ。文書の発給が文亀3年だとすると足利高基改名(1509(永正6)年)と合わないのだが……。その一方、文亀3年が「椙山之陣」(杉山役)発生年としているYでは矛盾が発生しないにも関わらず、発給者を「憲■」とぼやかしている。Y/Zともに年次の矛盾解消で混迷した気配がある。

ここでヒントとなるのは『吾妻鏡』。近世になって流布したこの書物には毛呂氏が出てくる。毛呂季光が、伊豆に流された頼朝の下人を助けたことを賞され、1193(建久4)年に所領を与えられている。そしてこの間に頼朝は「椙山之陣」を経験している。

1180(治承4)年8月24日。石橋山の合戦で破れた頼朝は「椙山」に退いて辛くも虎口を逃れる。椙山は相模西郡の湯河原の北方にあるが、伊豆国までの境界は2~3km。現代でも、湯河原・真鶴・熱海・函南を、神奈川と静岡どちらか混同している人間は多い。原文にある「椙山」という表記といい、伊豆国という記載といい、改変者が湯河原の椙山を意図した可能性は高いだろう。

挙兵前の頼朝に与しながらも、季光が石橋山に参戦した記録はない。そこで、無勢の頼朝と共に戦ったという勲功を偽装するために第2の改変者は以下のバリエーションを用いたのではないか。

Version_D

椙山之陣以来、相守■■■走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

註「仕鎌倉殿、豆州椙山役以有働癸亥賜書」

この改変者は、Version_Cまでを仕立てた人物とは別に存在すると思う。何故なら、年代の把握が出来ておらず、鎌倉初期の文書形式とは異なることに頓着していないからだ。第2の改変者は、鎌倉幕府草創期を意図して「椙山之陣以来」を追記する。また、註書きでは干支のみの「癸亥」に「賜書」したのだと残す。擦り消された人名に「武衛」を入れさせたかったのだろうが、頼朝を表わす言葉を限定しきれず摺り消しのまま残したように思う。ここの癸亥は、時期から考えて1203(建仁3)年が該当する。この年は頼家が危篤に陥ったことから比企能員の乱が誘発され頼家は9月7日に出家させられている。9月5日という日付は、頼家が最後に出した書状にしたいと目論んだのではないかと思われる(ということはこの日付自体この時点で改変されたとも考えられるが、その根拠はないため現時点ではこの点に言及しない)。

その後、第4の改変者が登場。ここで再び、年代の比定が変わる。この改変者は花押が関東公方であろうと判断できる人物で、「鎌倉殿」を関東公方と考えたのだ思う。また、この癸亥は、室町期だと1503(文亀3)年・1563(永禄6)年のどちらかだ。伊豆国で戦闘があったとしていることから、永禄6年(足利義氏・北条氏政)よりも文亀3年(足利政氏・上杉顕定)を採用したはずだ。註の「椙山」を異字として「杉山」とし、古河公方・上杉氏と伊勢宗瑞・今川氏親との抗争を想定したのではないだろうか。

Version_E

椙山之陣以来、相守顕定走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

政氏(足利晴氏花押)

毛呂土佐守殿

註「仕古河殿、豆州杉山役以有働癸亥賜書」

ところが、実際に残された文書では、「相守」の対象は「憲房」で、花押は「高基之由」としており、どちらも1世代後になっている。さらに、癸亥は「椙山之陣」発生年ではなく、文書の発給年に切り替わっている。

Version_Y

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、

九月五日

憲 花押

毛呂土佐守殿

註「仕山内上杉管領 文亀三年癸亥豆州杉山役以有働自上杉家賜書」

更なる改変があったのかも知れない。一つ考えられるのが、文亀4/永正元年の立河原合戦への参戦経験が毛呂氏に伝わっていたため、その前年の武功としたかった意図だ。ついで、発給者を古河公方にしたメインバージョンと、関東管領発給としたサブバージョンを用意した。2つ用意した理由は判らないが、下書きだったサブが偶然残ったのかも知れない。

そしてこの後改変がないことから、その固着契機を仕官時の証拠整理と見るならば、毛呂長敬を第4改変者に充てられるだろう。原文書はその際に失われたものと思う。

但し、下記目撃者の記憶から、07号文書は「足利高基朝臣感状」という認識で書状の複写版として保存されていたことが判る。であれば、2つのVersionは写し文書の中に書き込むなどの手法で並存していたのだろうか。この点は今後調べる上での課題となりそうだ。

資料一

足利高基朝臣感状

同 晴氏朝臣感状

北條氏政臣人馬■■

同書

毛呂仙千代知行書立

毛呂参三郎同

右は当郷伝来古文書口写し

毛呂郷長栄寺之納置もの也

嘉永七年甲寅年 若狭家臣

九月日 山田九太夫吉令

資料二

毛呂山田系譜 一冊

伝来古文書写 一袋

若狭家臣 山田九太夫納之

(中略)筆者は長栄寺が火災にあう前まだ毛呂氏の研究があまり進んでいない三十年程前同寺住職笠松師から北條氏政文書写し二通を経眼した事があった。此の文書は忠実と言うか詳細に写され文書の虫喰い部分もそのまた写されて虫喰いと書入れてあった事を記憶している。(『あゆみ第21号』毛呂山郷土史研究会・63ページ)

残された課題。

縷々書き立てた内容は、憶測の上に憶測を重ねて更に仮定していることから、多分に恣意的な観測である。とはいえ、茂呂氏宛て文書からどのような意図で改変されたかの道筋がつながりうることを示せたものと思う。この仮説が今後の議論を促進するものになれば幸甚である。

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