毛呂氏の軌跡を追ってみる。

可能な限り追ってみたところ、3つの系統が見つかった。□は小浜藩に近代まで残った川越山田系(家譜は■で示す)、○は近世初頭に小浜藩に入り後に追放された忠衛門系、△は出羽国松山藩に入り左沢領代官を勤めた善太夫系となっている。

■1596(慶長元)年 山田吉之が生まれる(山田家譜)
 1609(慶長14)年 酒井忠利が川越に大名として赴任
■1624(寛永元)年 山田吉之が酒井忠勝に出仕(山田家譜)
■1628(寛永05)年 *毛呂長兵衛死去(山田家譜)
 1634(寛永11)年 酒井忠勝が川越から小浜へ転封
□1636(寛永13)年 *毛呂長兵衛死去(榎本弥左衛門覚書)
○1637(寛永14)年 百五拾石 毛呂忠衛門(小浜藩分限帳)
○1640(寛永17)年 *毛呂長兵衛死去(川越行伝寺過去帳)・百五拾石 毛呂仁右衛門(小浜藩分限帳)
○1641(寛永18)年 御代官一同 無呂仁左衛門・高嶋代官 百五拾石 山田弥五右衛門(小浜藩分限帳)
○1642(寛永19)年 毛呂仁右衛門追放・山田弥五右衛門出仕(酒井忠勝書状)
△1645(正保02)年 毛呂善太夫藤正が江戸に生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)
 1647(正保04)年 左沢領が出羽松山藩領となる
□1653(承応02)年 *花厳院宗浄・毛呂長兵衛殿・辰年四月。承応二年三月、過去帳表具之紙は山田久兵衛造立す(川越行伝寺過去帳)
□1658(万治元)年 米拾五表二人扶持 山田九太夫(小浜藩分限帳)
○1665(寛文05)年 毛呂仁右衛門が『新木古庭村山改帳』『山検分帳』を提出(伊東家文書)
 1669(寛文09)年 仙石政勝が毛呂本郷・大八木村などを拝領 宝永6年からは仙石領(角川地名辞典)
△1675(延宝03)年 毛呂八郎兵衛季方が江戸に生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)
□1680(延宝08)年 毛呂長敬が旗本として出仕(寛政譜)
 1696(元禄09)年 仙石政勝隠居
□1705(宝永02)年 大谷木季貞が旗本として出仕(寛政譜)
△1742(寛保02)年 毛呂八郎兵衛が生まれる(巨海院酒井直次墓域悉皆調査)
○1748(寛延元)年 拾七俵三人扶持 毛呂英吉(小浜藩江戸分限帳)
■1758(宝暦08)年 *山田吉之曾孫毛呂武伝太が追放され断絶(1774(安永3)年小浜藩家臣由緒書)

出典は大雑把な略年表ではあるが調べたことを下に書き留める。

山田家譜は余り当てにならないように思う。そもそも日蓮宗の山田氏は松山の上田氏重臣であって、毛呂よりは上田を名乗りたがるのでは、と思ってみた。では何故、川越の山田氏が「本姓は毛呂」にこだわるのか。

そう疑問を持って年表を見てみよう。面白いのは、寛永19年。川越で被官となった毛呂忠衛門の息子、仁右衛門は出世を重ねて小浜藩で代官に取り立てられる。が、この年追放されてしまう。入れ替わりに入ってきたのが、山田弥五右衛門。この山田家は後北条出身と語るが、「天正17年に相模国の八王子城に篭城」と言っている辺りはかなり怪しい。ちなみにこの系統は毛呂氏を名乗っていない。小浜藩には川越で仕官した者が多かったので、「八王子篭城」は一種のブランドだったのかも知れない。

山田吉令の先祖である山田九太夫が仕官するのはこの追放劇の16年後。毛呂氏を名乗るのはさらに100年後であるため、新入りであるが故に由来を強化するため僭称を画策したのだと思われる。

毛呂仁右衛門については、追放の23年後にひょっこりと姿を現わす。葉山から東にいった木古庭山村で山林の調査を行なっていた。この人は行政官としては無能ではなかったように思う。酒井忠勝が追放を命じたのは、代官仁右衛門が土地の都合も考えず徴税したことが原因だが、他ならぬ忠勝はその前年に「年貢が少ないからちゃんと徴税するように」と厳命を下している。察するに、江戸詰めとなって在地掌握ができない主君によってスケープゴートにされたのではないか。そして、毛呂仁右衛門は武蔵毛呂山の毛呂氏ではなかったようにも思う。確証はないのだが、この頃、後に庄内支藩松山藩の毛呂氏の祖となる善太夫が江戸に生まれている。まだ毛呂・大八木氏が旗本となる前なので、代官職を求めて放浪していた仁右衛門が江戸で求職中に善太夫を成したのではないか。そして、今度は左沢代官として陸奥の地に旅立っていったと。

旗本となった毛呂・大八木氏が何故仕官したかというと、毛呂山が天領から仙石政勝所領になったのが契機だと思われる。その後彼らは江戸に詰めて明治を迎えることから、代官志向の仁右衛門系統とは異なるように感じられる。

最大の謎は、忌日が3つある毛呂長兵衛だが、手習いを受けていた榎本弥左衛門の証言から経済的困苦にあった点、それを父母に隠していた点を勘案すると、武家として落魄した上野国の佐貫茂呂氏の系統を髣髴とさせる。また、同時期に川越にいてこちらはうまく小浜藩に入れた毛呂忠衛門・仁右衛門と同族であった可能性も高いだろう。忌日がぶれたのは小浜藩への仕官の5年前に山田久兵衛が回向を手向け、更に山田家が系図で1628(寛永5)年にまで遡らせたためだ。

山田久兵衛が毛呂長兵衛の名跡を何らかの理由で利用したと思われるが、ここから先は手がかりがない。参考までに、小浜市史に記載された毛呂・山田氏の記録を記す。

安永三年小浜藩家臣由緒書

 本国備中松山 生国若狭、寛永十九年被召出。安永三年迄百三十三年
当午二拾二歳 山田甚内
一先祖者相州小田原北条之家臣毛呂土佐守義可与申候。天正十七年相州八王子ニ而討死仕、二男刀太郎与申候致浪人罷在、其子長兵衛与申、其子弥五介与申堀尾帯刀様江知行弐百石ニ而罷出、其子弥五右衛門与申堀尾家御断絶ニ付浪人仕、備中松山江引込罷在候。
初代 山田弥五右衛門盛重
一忠勝様御代、寛永十九年被召出知行百三拾石被下置、御国中江州敦賀川除普請奉行。忠直様御代、寛文二年三方郡気山村之川除普請場ニ而病死。

寛永19年の忠勝覚書9月18日に山田弥五右衛門に屋敷を与えた記述あり。

本国武蔵生国三河、寛永四年別当被仰付。安永三年迄六十八年
当午五十六歳 山田半助
一曽祖父山田藤兵衛吉之儀、忠利様御代、寛永元年於川越被召出御宛行七石弐人扶持、其後度ゝ御加増被下置候。忠勝様御代、寛永十五年新知五拾石。忠直様御代、寛文二年五拾石御加増都合百石、同十一年隠居忰九太夫部屋住ニ而被下置。名道無与改、天和二年病死。忰九太夫吉久儀藤兵衛惣領ニ而忠勝様御代、慶安二年被召出御切米拾五俵二人扶持、其後五俵宛両度御加増都合弐拾五俵弐人扶持。忠直様御代、寛文十一年家督無相違百石。忠隆様御代、貞享三年隠居忰定右衛門部屋住ニ而被下置候御切米拾五俵為隠居料被下置。忠音様御代、享保六年病死。九太夫惣領定右衛門家督相続仕候処、定右衛門孫毛呂武伝太代ニ至、忠與様御代、宝暦八年永之御暇被下置家断絶仕候。

寛永十四年分限帳
百五拾石 毛呂忠衛門

寛永十七年分限帳
百五拾石 毛呂仁右衛門

寛永十八年分限帳
御代官一同 無呂仁左衛門
高嶋代官 百五拾石 山田弥五右衛門

万治元年分限帳(この分限帳は元治2年に山田吉令が写したもの)
五拾石弐人扶持 山田藤兵衛
御扶持方衆
拾五人扶持 山田宗久
米拾五表二人扶持 山田九太夫
同拾五表右同断 山田次兵衛
弐人扶持 山田万五郎

寛延元年江戸分限帳
拾七俵三人扶持 毛呂英吉

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