1561~3(永禄4~6)年の今川氏関連文書を細かく見ると、通説にあるような、父の弔い合戦もせず遊興に明け暮れていたという氏真の姿はどこにもない。むしろ、松平元康(徳川家康)の反乱で電撃的に奇襲された牛久保を確保しつつ、東三河を維持している。劣勢で士気が落ちてくると、陪臣や小者にも感状を出して、一時的なものではあるが事態打開を図っている点は積極的な取り組みだといえるだろう。

また氏真は、猜疑心に駆られ帰属の疑しい国衆を次々粛清したとも言われるが、奥平氏・匂坂氏の場合は赦免している。ただ、菅沼氏は遺恨が残ったらしく松平氏に後でつけ込まれているが、処刑した訳ではないようだ。

では何故東三河だけでなく西遠江まで失ったのか。現時点で推測している点は2つある。

まず、国衆からの信頼度低下が考えられる。当主義元の敗死は言わずもがなだが、義元時代に乱発した空手形の方が深刻だと考える。以前検討した牧野保成の扱いを見ても、杜撰で強引な処置が窺える。そもそも義元が三河へ出馬せざるを得なかったのは、こうした待偶に三河国衆が反乱を起こしたからだろう。

対する元康は、国衆へ起請文を出して利権の保障をアピールしている。挙兵当初は岡崎の人質を強引に押さえたりしていたが、素早く方針転換したのが幸いしたのだろう。永禄4年12月時点で満年齢19歳という若さ(御し易そうに見える点)も幸いしたかも知れない。一方で氏真はパワーバランスの変化を考慮せず、義元と変わらず判物安堵だけを用いたため、離反を招いたと思われる。

もう1つの要因は、それまで前線を担っていた天野・松井・朝比奈の遠江国衆を起用しなかった点だ。牧野・鵜殿・岩瀬といった東三河国衆を小原・三浦らの側近たちに率いさせているが、急な方針転換による戦闘力の低下は否めない。永禄3年の敗戦で遠江国衆が戦闘力を失った事由もあるだろうだが、少なくとも天野氏は鳴海原合戦で被害を受けていないから、意図的に投入しなかったと考えてよいと思う。

戦闘経験も豊富で三河の地理や国衆のパワーバランスを熟知している彼らを使わなかったのは、先に述べた義元の強引な施策を現地で担当したからではないか。敗戦直後の永禄3年8月には朝比奈元徳が三河で戦闘しているが、その後外されている。義元近臣が指揮をとるとかえって国衆の反感を買うばかりだったので、変更したとすれば腑に落ちる。

以上から、三河国の騒乱は国衆を統率できなかった義元時代に起源があり、氏真・元康ともにそれを改善する手法が問われたといえるだろう。氏真は消極的かつ緩やかに解消しようと試み、元康は積極的かつ迅速に打開しようとした。ここに明暗が分かれた。

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