鷹之鶴初ニ候、浦山敷候、小田原へ則遣候、将又動之模様をハ、左馬助ニ委細書付渡候、三浦にて彼書付、其方可入披見候、両人を当所ニ致候、恐ゝ謹言、

九月廿七日

氏政(花押)

上総入道殿

→戦国遺文 後北条氏編 1875「北条氏政書状」(堀内久勇氏所蔵文書)

天正4年に比定。

 鷹狩の鶴は初物です。羨ましいことです。小田原へすぐに送って下さい。それから、作戦の状況を左馬助に詳しく書付で渡しました。三浦にてその書付をあなたに見せるでしょう。両人宛を1通にまとめました。

雖顕先書、猶遣飛脚候、椎津地之当番高城ニ候へ共、高城大手へ参陣之間、人衆可引由申付候、彼地へ相当程東金相談、自両所早ゝ先人衆を籠置、肝要候、恐ゝ謹言、

六月五日

氏政(花押)

酒井伯耆守■

→戦国遺文 後北条氏編 1919「北条氏政書状」(千葉市立郷土博物館所蔵文書)

『遺文』は花押から天正5年とするが、氏直が家督継承して「大手」を形成する天正9年以降の比定も可能。

 先の書状に書きましたが、さらに飛脚を送ります。椎津の当番は高城ですが、高城は大手軍に参陣していますので、部隊を引くようにとのこと申し付けられています。あの地の当番は東金と相談し、両所より早々にまず部隊を配置するのが大切です。

五月十五日、於才原敵討捕候、神妙ニ被思召候、仍俵子被下候、向後弥軽身命走廻者、御恩賞任望可被与旨、被仰出者也、仍如件、

庚辰[印文未詳]六月八日

坂本四郎左衛門

→戦国遺文 後北条氏編 2177「北条氏照朱印状写」(新編武蔵国風土記稿百十一多摩郡)

天正8年に比定。

 5月15日、才原において敵を討ち取りました。神妙に思し召されました。俵子を下されました。今後ますます身命を軽んじて活躍するなら、ご恩賞は望みのまま与えられるだろうとの仰せである。