どの戦で天守が「司令塔」だったのか??
上記はいつも拝読している『城の再発見!』ブログのエントリーだが、大坂夏の陣屏風絵で描かれた天守では窓に女性の顔があることを指摘している。また、城主が天守に登るのは落城が決定的になった時であること、天守は大奥・詰めの曲輪に連結していることも触れられている。そして、天守自体は鉄炮・大砲の的になるのに、なぜ女性が存在するかは疑問だとされている。
天守は人質を入れていたと考えると、ある程度納得はいく。陣地の奥なら守り易く逃げられにくいだろう。ただ、天守から戦場を見下ろした女性たちが、軍監も兼ねていたと考えることも可能だ。戦っている父・兄弟・夫・息子の活躍を熱心に見て勤務評定につなげただろうし、男たちもそれを意識して指物や前立を目立つようにしたのだろう。
鈴木眞哉氏は『戦国軍事史への挑戦 ~疑問だらけの戦国合戦像 』(歴史新書y)にて、戦場での勤務評定が具体的にどのようになされていたかは不明としているが、野戦も含めて女性軍監がいたと考えるのも一案ではないかと思う。その利点・不利点を挙げてみる。
利点
- 男が敵前逃亡できない
- 居住地域ごとに軍監も編成されており、抜け駆けなどは軍監同士で相互監視
- 他人の監査ではないため、納得性が高い
- 人質も兼ねて軍と移動を共にするため、留守中敵方に内通できない
不利点
- 急速に戦線が崩壊した場合、軍監(人質)まで拉致される危険がある
- 女性内での序列が勤務評定に影響する可能性がある
- 軍監部隊が大きくなり、補給物資の量が増大する
現在この考えに史料的根拠はないが、後北条氏が人質の管理を民間に委託していたりという意外な事実が徐々に明らかになっていることもあり、可能性はゼロではない。この留意点に立って、いくつか史料を当たってみようかと思う。
女性たちが熱心に見守り、声援を送る。これは兵士のモチベーションを上げる最強の手段だと思う。そう考えて改めて天守を観察すると、優美な様式のものが存在する理由も判りやすい。そして、会津若松の天守が燃えていると勘違いした白虎隊の絶望には「母や姉妹が焼かれて誰も見守るものがいない」という切迫したものが含まれていたのかも知れない。
天守閣の女性。その話、そういえば大阪城で読みました。
不利点2。女は好みのタイプには甘く、嫌いな人には意味なく辛辣…ということも言外に含まれてますか?(ふふふ)
不利点3。衣食住、女性は手間がかかります。ただでさえ戦で大わらわなので、天守閣の女性にかまっているのも大変だと思います。まあ現代と違って、戦国時代の女性はそんなに手間がかからなかったかもしれませんが。
利点4は納得。敵の攻撃も怯みますものね。
我が家にも夏の陣図屏風があるので(お土産用のチャチなのが)、天守閣の女性がどんな表情をしているのか見てみました・・が、小さ過ぎて表情はおろか人さえ見えませぬ・・。
でもですね、天守閣にいるのは、普通、美しい‘あやかし’にござります。
コメントありがとうございます。
天守の妖しといえば姫路城の刑部姫ですかね。大坂夏の陣図はWikipedia「大坂の役」の画像が巨大ですが、さすがに女性たちの表情は判りませんでした。
また後日触れますが、天守内で恐ろしい作業に従事していた「おあむ」のような存在もあったので、この時代は女性も戦場に慣れていたような気がします。
奇説とは思いつつ、史料で何か見つかればいいと考えています。ただ、女性は本当に史料上出てこないんですよ 😐