国土変遷アーカイブにある写真には、終戦直後の鳴海城が写っている。大雑把にトレースすると以下のようになる。

 

1961年空撮写真を元に鳴海城付近を図示

1961年空撮写真を元に鳴海城付近を図示

北の成海神社から伸びてきた稜線が、扇川手前で崖を形成する。それが瑞泉寺から鳴海城にかけてのラインとなる。その北東にある『砦』は字名。通説に善照寺砦と呼ばれるもので、東に向かって崖を形成する。

鳴海城・砦・瑞泉寺の3拠点は、三河から東海道を上る敵に対して効果を発揮したものと思われる。黒末川を渡った三河勢はすぐに瑞泉寺からの攻撃に晒される。辛うじて鳴海宿に侵入しても、北からの高地に晒されながら進まねばならない。鳴海城の手前で北に折れるが、道は城の眼前に取り込まれており、容易には進めない。

一方で砦は東に向かって構えを持っており、相原郷から来る鎌倉街道方面へ睨みを利かしている。部隊を2手に分けても対応可能ということだ。

東西南に強い鳴海だが、北からの攻撃には弱い。傾斜も緩く川もないため、土塁・空堀などで防御線を構築しなければならないだろう。

つまり、この城を今川方が確保するのは難しかっただろうと思われる一方、織田方には有利に働いたものと推測される。しかし、史料にある鳴海城は今川方の岡部元信が5月19日以降も堅守している。

この矛盾を次回から検討していきたいと思う。

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