伝馬五疋可出候、鉢形へ被召寄まいゝゝニ被下、可除一里一銭者也、仍如件、
戊子[「常調」伝馬朱印]

十二月十八日

宗悦 奉之

小田原より

鉢形迄宿中

→小田原市史 史料編「北条家伝馬手形写」(相州文書 足柄下郡音曲舞大夫所蔵)

戊子は1588(天正16)年。

 伝馬5疋を出して下さい。鉢形へ召し寄せられる舞々に下され、1里1銭を除くように。

伝馬四疋可出之、中山ニ被下、可除一里一銭者也、仍如件、

己丑[「常調」伝馬朱印]

十二月廿六日

江雪 奉之

自小田原沼田迄

宿中

→小田原市史 史料編「北条家伝馬手形」(本間順治氏所蔵文書)

己丑は1589(天正17)年。

 伝馬4疋を出すように。中山に下され、1里1銭を除くものである。

御札披見、本望候、抑今度之様子、案外至極候、已前以鈴木、氏直申達候キ、能ゝ初中後有御工夫、可然様ニ御取成専要候、何篇ニも氏直無表裏所、分明可被仰立事、年来之筋目此節候、悉皆貴老可有御指引候、恐々謹言、

十二月九日

氏政(花押)

徳河殿

→1987小田原市史 史料編「北条氏政書状写」(古証文五)

1589(天正17)年に比定。

 お手紙拝見し、本望です。そもそもこの度の状況は、思いもかけなったことの極みです。以前に鈴木によって氏直が申告していましたので、最初から最後までをよくよくお考えいただき、しかるべきようにお執り成しなさるのが大事です。どこから見ても氏直に裏表がないことは明白だと、仰せ立てられることは、今までの筋目はこのときにかかっています。全てあなた様の差配となりますように。

従京都之御書付給候、并御添状具披見、内ゝ遂一雖可及貴答、還相似慮外候歟之間、先令閉口候、畢竟自最前之旨趣、貴老淵底御存之前、委細被仰候者、可為本懐候、猶罪之被糾実否候様所希候事、一両日以前以使申候キ、津田・冨田方へ申遣五ヶ条入御披見上、重説雖如何候、猶申候、名胡桃努自当方不乗取候、中山書付進之候キ、御糾明候者、可聞召届事、

一、上洛遅延之由、被露御状候、無曲存候、当月之儀、正、二月にも相移候者尤候歟、依惑説、妙音・一鴎相招、可晴胸中由存候処、去月廿余日之御腹立之御書付、誠驚入候、可有御勘弁事、

右之趣、御取成所仰候、恐々謹言、

十二月九日

氏直(花押)

徳川殿

→小田原市史 史料編1986「北条氏直書状写」(古証文五)

1589(天正17)年に比定。

 京都よりの書付を受け取り、添え状も詳しく拝見しました。内々で逐一お答えいただけるだろうとはいえ、かえって慮外のことになってしまうかと思い、まずは閉口しています。結局、最近の趣旨については、あなた様は本当のことをご存知ですから、その詳細を仰せになられれば、本懐です。さらに罪の実否をただされるのは、望むところです。一両日以前に使者をもって、津田・冨田へ申し伝えた5箇条をお見せしております上は、重ねての説明はどうかと思いましたが、さらに申します。名胡桃は絶対に当方から乗っ取ったのではありません。中山の書付を進呈しますから、ご糾明されるなら報告されるべくお届けのこと。
一 上洛遅延のことを披露したお手紙。つまらないことです。当月のこと、1月・2月にも移せばよいものではありませんか。不穏な噂により、妙音院と一鴎軒を招き、胸中を晴らしたいものだと思っていたところ、先月20何日のご立腹の書付で本当に驚いております。ご勘弁いただけないかということ。
 右の趣旨でおとり成しを仰せになって下さい。

条目

老父上洛遅延由、御立腹ニテ、到沼津下向、一昨六日之御紙面、案外候、抑去夏妙音院・一鴎軒下向之刻、截流斎於罷上儀ハ勿論候、併当年者難成候、来春度之間可発足之由、条ゝ雖御理候、不可相叶旨、頻承候、公義ノ事、不及了簡、極月卒尓半途迄モ罷出、正月中ニ可京着由ニテ候キ、就中先年家康上洛之砌者、被結骨肉、猶大政所ヲ三州迄御移ノ由、承届候、然而名胡桃仕合ニ付御腹立、或永可被留置、或国替、カ様之惑説従方ゝ申来候条、一度帰国存切之由、截流斎申候、[父子之国(間)] 可過御察候、依之妙音院・一鴎軒招申、縦此侭在京候トモ、晴心中、心易上洛為可申候、更非別条候事、

一 此度為祝儀為指上候石巻御取成之模様、於都鄙失面目候、更以氏直相違之扱、毛頭在間敷由ニ候、御両所へ恨入候、去四日、妙音院此方へ招申義者、石巻御取成不審候間、内ゝ可尋申存分故ニ候、然ニ半途ニ相押之由、無是非存候条、以書付申述候事、

一 此上モ無疑心至御取成者、無猶予截流斎可上洛旨申候間、御両所有御分別、可然様ニ所希ニ候事、

一 名胡桃之事、一切不存候、被城主中山書付、進之候、既真田手前へ相渡申候間、雖不及取合候、越後衆半途打出、信州川中嶋ト知行替之由候間、御糺明之上、従沼田其以来加勢之由申候、越後之事ハ不成一代古敵、彼表へ相移候ヘハ、一日も沼田安泰可在候哉、乍去彼申所実否不知候、従家康モ、先段ニ承候間、尋キワメ為可申、即進候キ、二三日中ニ、定而可申来候、努ゝ非表裏候、ナクルミノ至時、百姓屋敷淵底、以前御下向之砌、可有御見分歟事、

一 以前渡給候吾妻領、真田以取成、百姓等押払、一人モ不置候、剰号中条地、其侭人前旨台詰不相渡、箇様少事可申達無之候間、打捨置候、猶名胡桃之事ハ、対決上、何分ニモ可任承意候事、以上、

十二月七日

氏直

冨田左近将監殿

津田隼人正殿

→小田原市史 史料編1982「北条氏直条書写」(武家事紀三十三)

1589(天正17)年に比定。

 老父の上洛を遅延したことでご立腹され、沼津に下向との由、一昨日6日の書面は思ってもいなかったことです。そもそも去る夏に妙音院・一鴎軒が下向された際に、氏政が上洛することは決しており、併せて今年は難しいので来たる春か夏の間に出立するとのこと、色々とご説明したものの、叶わないだろうとの旨、しきりにお聞きしました。公儀のことですから最優先で、12月に急遽途中まで出て、1月中に京へ到着することとなりました。ただ、先年家康が上洛する際には、血縁を結び、さらには大政所を三河国にお移しになられたこと、聞いております。そして名胡桃の出来事にご立腹とのことで、あるいは長期抑留、あるいは国替などと、不穏な噂が方々より届けられています。帰国はできないものと氏政が申しております。父と息子のこと、お察し下さい。これによって妙音院・一鴎軒を招いて、たとえこのまま在京するとしても心中は晴れやかで心安く上洛するだろうと告げました。さらに別状はありませんでした。
 一、この度祝儀のため上洛させようとした石巻の取り扱いの模様、都鄙(京・関東)の間で面目を失いました。さらにここで氏直に間違った扱いをすることは、毛頭あるまじきことです。御両所を恨みます。去る4日、妙音院をこちらへ招待したのは、石巻の取り扱いが不審なので、内々に考えを尋ねるためでした。そこへ途中で拘留したとのこと。どうしようもないことと思い、書付にて申し述べました。
 一、この状況でも疑心なくおとりなしいただけるなら、猶予なく氏政が上洛すると申しておりますので、御両所はよくお考えになり、しかるべきようになさることを希望します。
 一、名胡桃のことは、一切知りません。城主中山の書付を進呈します。既に真田がこちらへ渡していると申していますので紛争ではありませんが、越後衆が途中まで出撃しており、信濃国川中島と知行を替えると申しています。ご糾明の上でですが、それ以来加勢が入ると沼田から連絡があります。越後のことは一代ではない古敵です。あの方面に移動したならば、沼田が一日でも安泰でいられましょうか。とはいえその報告は実否を知りません。家康よりも先段承りましたので、徹底究明するべきだとのことで、すぐに進めていますから、ニ三日中にきっと報告があるでしょう。間違っても裏表はありません。名胡桃の時に至っては、百姓屋敷の明細は以前下向なさった際に、お見分けあったでしょうか。ということ。
 一、以前にお渡し下さった吾妻領は、真田の介入によって百姓達がいなくなり、一人も残っていません。さらに中条という土地でそのまま人前で『台詰』(台帳不在?)であるとして渡していません。このような小事、申すまでもないことだと打ち捨てております。さらに名胡桃のことは、対決の上、何分にも意を承ってお任せするでしょうこと。